ザボンの花

書誌事項

ザボンの花
庄野潤三著

初出
日本経済新聞夕刊 1955年4月2日より8月31日まで(152回) 

出 版 1956年7月 近代生活社

紹介 

 庄野潤三さんの最初の長編小説にして、最初の新聞連載小説です。庄野さんは、このころ朝日放送の東京支社に勤務しており、サラリーマン兼業作家でした。阪田寛夫さんの「庄野潤三ノート」に拠れば、これを書いていた最中、庄野さんは冗談に「before breakfast novel」と呼んでいたそうです。朝食前に3枚の原稿を仕上げ、それから出勤する、そういう生活スタイルの中で書かれた作品なのだそうですが、確かに、武蔵野の朝の日差しが感じさせられるような作品です。

 庄野さんの初期の作品は、「愛撫」から始まるいわゆる夫婦小説にしろ、「プールサイド小景」にしろ、「生活」のネガティブな部分に焦点を当てた作品が多く、そういう作風は、「夕べの雲」が発表されるまで続くのですが、この「ザボンの花」は例外で、生活の中のネガティブな部分は切り捨てて、家族が決して便利とはいえない新しい土地で、力強く暮して行く様子が描かれている、明るくて元気の貰える作品になっているように思います。

 作品の舞台は東京の郊外のとある町。水道もガスもまだ来ていなくて、「遠くに森や雑木林や竹やぶや、それらの陰にある農家や、ところどころに新しく建てられた住宅」があり、牧場や麦畑も近くにあるような場所で、大阪から転勤で越して来た庄野一家が腰を落ち着けた町、練馬区石神井周辺がモデルです。「ザボンの花」はリアルタイムに書かれた作品ですが、昭和30年当時、23区内といえども練馬は完全な郊外であったことがよく分ります。

 作品の主人公の家族は5人家族です。サラリーマンと思しき夫、矢牧、その夫人の千枝、長男で小学校四年生の正三、長女で二年生のなつめ、三歳の四郎。それに近所の村田さん一家。ここには、なつめと同級生のユキ子ちゃんと、四歳の妹、タカ子ちゃんがいます。当時の庄野家は、庄野夫妻と二年生の長女と三歳の長男の四人家族でしたから、「ザボンの花」は、「夕べの雲」以降の作品とは異なっていて、自分たちの経験を主体に描いたとしても、基本的にフィクションだと思います。

 家族それぞれの活動が、スケッチ風に描かれていて、それぞれが印象的です。特別な事件が起きるわけではないのですが、大人の想像が及ばぬような、なつめたちの道草のコース、正三のひばりの子を見るときの思い、ユキ子ちゃんとなつめの喧嘩、どれもこれもがどこにもありそうな事柄で、共感を覚えます。そのほか楽しいエピソードが満載で、読み返すたびに面白さが増します。

 これらの中で、一番印象深く描かれているのが千枝です。千枝はお母さんなのですが、子供の心を忘れていない人で、川の中へ足を踏み入れてほたるを捕まえたりします。やどかりを買った時も、子供たちの分に加えて、自分の分も買います。それを見たユキ子ちゃんのお母さんは、「あなたって、本当に知能程度は小学生ね。そんなもの買って来て、大よろこびなんて。家にもって帰って、どうするつもりなの」と驚きますが、でも、子供たちは大よろこびです。生活に疲れて不安に感じているよりも、前向きな楽しみをもっておおらかに過ごすほうがどんなに健全か知れません。

 庄野さんは、文学を志した頃、友人の林富士馬さんに、「紅茶を飲みながらシュウクリームを食べるような小説を書きたい」といったそうですが、このことを50年へだてた「文学交遊録」の中で『「のびやかな、読む人を楽しくさせるような小説を書きたい」というくらいの意味ではなかったかと思われる。』と考察していますが、「ザボンの花」こそが、この「紅茶文学論」の最初の実践であり、最初の成果ではなかったかと私は思います。 

庄野潤三の部屋に戻る


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送