ワシントンのうた

書誌事項

「ワシントンのうた」
庄野潤三 作
2007年4月25日発行
197ページ
文藝春秋社刊 1238円(税別)
ISBN978-4-16-369040-7
発表: 文學界2006年1月号〜11月号

紹介

 『自伝風のものを書いてみたい。もっとも、私はこれまでその折々の自分の生活を素材とした作品をずっと書いて来た作家だから、いってみればなしくずしに自伝を書いて来たようなもので、特にこの十年はそうであった。子供がみな結婚して、「山の上」の家に二人きり残された夫婦がいったいどんなことによろこび、どんなことを楽しみに暮らして来たかを書き続けたから、いつも「自伝」を書いて来たようなものだ。『貝がらと海の音』に始まり『けい子ちゃんのゆかた』まで続く十作がそうである。

 ここで私は、これまであまりとり上げたことのない私の幼年時代のことを中心に書いてみたいという気持が私の中に生まれて来たので、改まった自伝というのではなく、子どものころ、作家を志望するようになった青年時代のころなどを書いてみたい。そうしてもしうまくゆけば、その話の間にこれを書いている今のこともとり上げてみたい。』

 以上が、『ワシントンのうた』の冒頭に書かれた作者の言葉です。この作者の言葉は正にそうで、庄野潤三が川崎の生田に越した1960年以降の庄野家の生活は、「夕べの雲」に始まって、「星に願いを」に至るまで、断続的に書かれて来ました。また、作者が文学を志してから「山の上」に家を立てるまでの生活は、「山の上」に家を建ててからの生活ほどではないにせよ、いろいろと書かれて来ました。戦争中の九州帝国大学時代の生活を描いた「前途」、大阪から東京に出てきて、練馬に居を構えた時分の生活を題材にした「ザボンの花」、「静物」など。しかしながら、確かに、大阪外国語学校を卒業するまでの幼年時代、少年時代のことはこれまであまりとり上げられてきませんでした。その意味で、『ワシントンのうた』は、これまでの庄野文学の空白を埋める作品です。

 しかしながら、正確な自伝というのとは一寸異なります。好ましい思い出のエピソードの集約と申し上げたら良いのでしょう。最近の庄野文学の特徴は、「どんなことによろこび、どんなことを楽しみに暮らして来たか」を書くことにあったわけですが、その意味では、最近の庄野文学の特徴の延長線上にある作品です。

 庄野潤三は、帝塚山学院初代院長の庄野貞三の三男として生まれ、大阪郊外の中産階級のぼんぼんとして、のんびりと育ったことが分ります。日本文学の私小説の大きな流れに、「貧乏」があることはよく知られておりますが、庄野文学が私小説の伝統に中にありながら、従来の私小説と一線を画するものは、貧乏臭さが無いことが上げられます。その根本は、子どものころ、貧乏を経験せずにのんびりと育ったことにあるように思います。

 とにかく庄野少年は、草野球を楽しみ、プラタナスの木に登り、トンボとりをして遊ぶ。トンボとりにもいろいろな技術があるようで、トンボの種類やとり方を子どものころどう呼んでいたかを細かく記していきます。タイトルの『ワシントンのうた』は、ジョージ・ワシントンの桜の木のエピソードに感銘を受けた潤三少年が、自分で作詞・作曲をし、家族の前で大声で歌ったことに由来します。もちろん楽譜など無い適当なものだったようですが、これが意外にも家族に受けたのです。

 このような子供時代のエピソード、家族のエピソードが続きますが、食事の話がいい。関西学院に通っていた長兄が帰ってくると母親が食べさせるビーフ・カツレツ、海苔とかつおぶしが二段重ねになっている「のりかつ弁当」、現在庄野夫人もお彼岸のたびに作られる伝統の徳島風混ぜ寿司「かきまぜ」などの話は、いつも美味しそうです。

 小学校四年生の時の初恋のエピソードも載っています。これは、後年作家になったころ『恋文』という作品にまとまりますが、第一作品集『愛撫』のなかで、最も瑞々しい作品になっています。

 この作品の中にはあまり明確には書かれていないのですが、庄野潤三はリーダーシップの取れる方だったようです。住吉中学時代はハーモニカバンドの指揮者をやって(これが、晩年自分がハーモニカを吹き、奥様が歌を歌う、という習慣に繋がるのですね)コンクールに入賞しラジオで放送される、戦後、今宮高校の教員となり、野球部長として春の第1回選抜高校野球に出場する、これらは、庄野文学の一つの特徴である家長的側面を髣髴させるものです。

 大阪外語学校に入学されてから生田の山に家を買うまでのエピソードは、これまで『文学交遊録』に書かれたり、いろいろな作品で取り上げられたものが多いのですが、それらも含め、作家・庄野潤三の持つ健全さが、幼少期から青年期にかけての経験によって育まれてきたのだな、ということが納得できる内容でした。 

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