シェリー酒と楓の葉
書誌事項
「シェリー酒と楓の葉」
庄野潤三 作
1978年11月15日発行
293ページ
文藝春秋社刊 1300円
発表: 文学界 1977年1月号〜1978年7月号(ほぼ隔月に発表)
シェリー酒と楓の葉 | 1977年1月号 |
フィンランド土産 | 1977年3月号 |
林の中 | 1977年4月号 |
ヨークシャーの茶碗 | 1977年7月号 |
窓の燈 | 1977年9月号 |
移転計画 | 1977年11月号 |
船長の椅子 | 1978年1月号 |
廃屋 | 1978年3月号 |
東部への旅 | 1978年5月号 |
除夜 | 1978年7月号 |
紹介
庄野潤三・千寿子夫妻は、ロックフェラー財団の奨学金を得て、1957年秋から翌58年夏まで、米国オハイオ州ガンビアのケニオンカレッジの研究員として生活しました。この留学は、庄野さんにとって非常に重要でかつ有意義な経験だった様で、この経験を経たことによって、庄野文学が変わったと御自身も認めています。
このときの生活経験は、帰国後まもない1959年に「ガンビア滞在記」として発表されました。しかし、庄野さんにとって、オハイオ州のガンビアという学生が500人ほどの小さな大学しかない、小さな町で過ごした約1年間の生活は、一冊の本として発表するだけでは足りないほどの思い出と経験を残した様です。そこで、庄野さんはこの留学からほぼ19年経った1977年に、留学生活の前半分を日記から書き起こして見せました。これがこの「シェリー酒と楓の葉」です。しかし,この仕事はなかなか大変だった様で、続編の留学生活の後半を描いた「懐かしきオハイオ」が発表されたのは、「シェリー酒と楓の葉」が発表されてから更に更に12年近く経った1989年のことでした。
庄野さんの滞在地として「ガンビア」を選んだのはなかなか卓見だったと思います。自らお書きの、『田舎の出来るだけ小さな町へ行って暮らしたいというのが希望であったから、戸数200、人口600のガンビアは申し分なかった』、というアメリカの田舎という側面は一つあるのですが、もう一つ大事なことは,そこが大学町であった、と言うことです。戸数200、人口600の町であれば,大学と無関係に暮らしている人たちは例外であり、ほとんどが,大学と何らかの関わりを持って暮らしている筈です。そうなると、町自身の匂いが大学と不可分になります。それは、非常に知的な部分が集約されている匂いであり、普通のアメリカの田舎では当然見ることの出来ない場です。
そういう場で過ごすわけですので、庄野さんが「白塗りバラック」の戸口の右手に、窓に向って置いてあった古い質素な書物机で書いた詳しい日記は、どうしても知的な面に満ちた人的交流が主になります。逆に言えば、最近の庄野さんが好んでお書きになるような自然の話などは、ほとんど例外に追いやられています。お天気の話はよく出て来るのですが、森の様子がどうであるとか、どんな鳥がとんでいるとかという話はほとんど書かれていません。そこが、当時の庄野さんの心細さの現れであり、不安の現われではないのか、という気がいたします。
もう一つの特徴は、書く内容が皆対等で(実際はそんなことはないのでしょうが)平準化されていることです。あるトピックをことさらに取り上げると言うことをしていないのです。しかし、多分、日記帳に書いたことは、一つ一つ再現してみせるのでしょう。
それにしても大学町の人たちは、皆庄野夫妻に対してフレンドリーで親切です。アメリカは日本と異なり公共交通機関が発達していないので、どこへ行くにも車が必要です。庄野夫妻もガンビアから5マイル離れたマウント・バーノンという町にしばしば買物に出かけるのですが,大抵誰かが車に乗せて行ってくれます。それも車がなくて不自由だろうと思う、大学町の夫人達が誘ってくれます。ランサムさんのような有名な教授でも例外ではありません。このあたりが、アメリカ人のメンタリティーをよくあらわしています。家に招待し、招待され、という交流も非常に多い。
アメリカの田舎町に住むことは庄野さんの希望だったとしても、そこに住む人達が受容不能なメンタリティーの持ち主であれば、その生活は淋しく詰まらないものであったに違いありません。庄野さんは冬を迎えるにあたり、東京に残して来た三人の子供達のことも考えれば,さびしく不安なことも少なくなかったと思います。しかし、文化の違う色々な人たちとの交流(大学ですので,純粋なアメリカ人以外の人が非常に多い)を通じて、その生活を楽しんで行くようになる様子がよく分ります。庄野夫妻と一番仲の良かったエディノワラ家の人達を、庄野さんは最初ご主人のミノーをエディノワラさんと書き、後半では、ただミノーと書くようになります。この変化が、言うまでも無いことですが、庄野家とエディノワラ家の親密さの変化を示しています。
最後になりますが、庄野夫妻は、1957年9月半ばにガンビアに着き、生活が落ち着いたのが10月半ばだった様です。この作品はその10月21日から12月31日までの庄野さんの日常が詳細に綴られています。
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