御代の稲妻

書誌事項

御代の稲妻
庄野潤三著
随筆集
1979年4月24日第一刷発行
講談社、1300円、0095-163598-2253
初出:1976年から1979年各雑誌、新聞等

紹介

庄野潤三さん5冊目の随筆集。昭和51年から54年初めにかけて書かれた随筆・短文集。合計71編です。第一部が自分の身辺での出来事、過去の体験等を題材に描いた48篇、第二部が主に読書にかかわる随筆で13篇。第3部は友人達の思い出を書いた10篇です。

その中で私が特に惹かれるのは、身辺を題材に書いた随筆です。この時期の庄野さんの作品は、アメリカでの留学生活の思い出を綴った「シェリー酒と楓の葉」、聞き書き小説の傑作「水の都」、ガンビア再訪の旅行記「ガンビアの春」などであり、自分の身辺に題材を取った長編小説は発表していません。それだけに、自分の身辺に題材を取った随筆に、興味を覚えます。

その頃の庄野家は、長女の夏子さんは三人の子供の母親となって、黍坂の借家に住んでいます。私は、黍坂が何処にあるかは良く分らないのですが、庄野さんの山の上の御自宅から、そうは遠くないところの様です。自宅には、ホテルで働いている長男と、大学生で書道を専攻している次男がいます。そういう時点で切り取られる日常は、最近の庄野さんの日常とは当然違うのですが、一方において、非常に似ているところもあって、そこが庄野さんらしくて面白いと思います。

特に、庄野さんらしいと思うのは、庭の植物や庭に来る鳥に関するお話です。作品集のタイトルとなっている「御代の稲妻」もまた、庭の朝顔のお話です。「御代の稲妻」とは朝顔の品種。この御代の稲妻が咲いた、というだけのお話を実にふくよかに書かれます。

「葉ばかり茂って一向に蕾がつかないので、このまま咲かずに終わってしまうのではないだろうかと言っていた朝顔が、不意に一つ咲いた。」とまず、本題を出します。咲いた日の前日は、夏の甲子園の決勝戦の日で、散歩をしていると、駐車している車のラジオから、同点でこれから決勝戦に入りますと言っている。60年ぶりの、東京対大阪の決勝戦対決を聞いたりしながら散歩したから、夜は眠いけれども、書斎の雨戸を閉めようとすると、朝顔のつぼみを見つけます。「そんなわけで、眠いことは眠いが、これは朝顔の花がひらきかけているのだ、どっちつかずの変なかたまりに見えるのはまだ夜だからだというふうに考えた」。あくる朝、妻が「御代の稲妻」が咲きました、といいます。それは、初めて聞く知らせでありながら、全く初めてというわけでもないという、中途半端な返事の仕方をしてしまいます。返事も中途半端ですが、咲いた朝顔も、稲妻が見当たらず、なんとも中途半端です。ついで、庄野家の朝顔の歴史をさりげなく紹介し、かつては、「うたたね」と「浜の真砂」という2種類の種をごったまぜにして蒔いた年は、「次から次へとよく咲いて賑やかであったが、どことなく支離滅裂といった趣があった」といいます。そして、最後に「「御代の稲妻」は、二日目の朝、七つ一遍にひらいた。どれにも稲妻は走っていなかったが、ゆったりした花で、私たちは満足した」

他にも楽しいお話が幾つもありますが、一寸脱線します。

本年(2002年)新潮2月号に、庄野さんと江國香織さんとの対談「静かな日々」が載っています。そこには、庄野さんの八十歳のお祝いの時、孫のフーちゃんが書いた「おじいちゃん八十歳、おめでとう会」という毛筆の看板の写真が載っていますが、この字は、伸びやかで、良い字です。フーちゃんは、「御代の稲妻」で、専攻書道を学んでいると書かれている次男の娘ですから、字は上手いのはお父さん譲りなのかなあ、などと思っています。

そう言えば、「御代の稲妻」には、庄野さんの書初めの話が2話ほど入っています。この頃習慣化していたお習字のはなしが、考えて見ると最近の作品のなかでは聞きません。庄野さんは、なかなか習慣を変えない人ですが、書初めについては、もうやっていないと言うことかも知れません。

他に面白い随筆は、例えば「軍鶏」と言う作品。これは、歯医者での観察をもとに書かれた随筆ですが、昼寝をしている先生のいびきを、庄野さんはこう書きます。「この鼾というものが芸術的といってもいいもので、決して単調な繰り返しではない。ひとつひとつ微妙に違っている。さっきは、こう来たから、今度も同じ道順を通って来ると思っていたら、そうでない。予測を許さないところがいい。」
こういうさりげないくすぐりが、的確に使われています。

このように、当時の庄野さんの随筆は、計算し尽くされている、と思われます。うまいです。他にも楽しい文章が幾つも載っていますが、今回の紹介は以上にしましょう。

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