ガンビア滞在記

書誌事項

「ガンビア滞在記」
庄野潤三 作
1959年3月発行
書き下ろし
中央公論社刊

紹介

 庄野潤三・千寿子夫妻は、ロックフェラー財団の奨学金を得て、1957年秋から翌58年夏まで、米国オハイオ州ガンビアのケニオンカレッジの研究員として暮らしました。この頃、毎年日本の作家一名がこの奨学金でアメリカに招かれており、庄野さんの前年には阿川弘之夫妻が留学しています。この留学の条件は夫人同伴ということで、庄野さんも小学生、幼稚園、それに前年に生まれたばかりの赤ちゃんの三人の子供を残しての米国留学となったものです。このときの庄野さんの研究テーマは「Fundamental thought of family life in the United States」ということであって、その結果が戸数200、人口600のガンビアという田舎町で暮すことになったものです。

 この留学体験は、庄野さんの人生においてかけがえのないものの一つであったようで、帰国後しばらくして発表されたこの「ガンビア滞在記」の他に1978年の「シェリー酒と楓の葉」、1991年の「懐かしきオハイオ」のニ長編があり、「ニューイングランドびいき」や「マッキー農園」などのいくつかの短編小説があります。

 これらの作品群は、全て留学中につけた日記が元になっているそうです。この日記は、分厚いアメリカの大学ノートに8冊あり、偏見なしに観察したことを忠実にメモしたものです。庄野夫妻が住んだ大学の教員住宅、「白塗りバラック」の窓に向かって小さな机があり、そこで、前日のことを詳しく書く。誰に会って、誰がこういった、と英語を交えて書いていったそうです。

 小さな大学町での人々の交流は、英語という共通言語で行われるのですが、非常に聞き取り難い英語を話す人もいて、馴れるまでは大変だったようです。しかし、向こうの人たちは分からせようとし、庄野夫妻は分かるように努力するので、その交流は必然的に親密になっているようです。そして、庄野さんは親切にされたことを「親切にされた」と書くのではなく、向こうの人たちが言ったことばでなるべく詳細に書くという姿勢を貫きました。このやり方は、後のいわゆる「聞書き小説」に引き継がれたいったことは申すまでもないことです。

 こうして準備した素材を、庄野さんは35のエピソードにまとめました。「シェリー酒と楓の葉」と「懐かしきオハイオ」は、日記をその形態で作品に仕上たもので、元々の素材の味が生きています。逆に「ガンビア滞在記」は、素材から特徴的な出来事、印象的な出来事を抽出して再構成したもので、人工的な味わいが強いです。そこに作者の意図が働いているように思います。

 特に庄野夫妻と付き合いの深い人達が、インド系のミノーの家族にしろ、人付き合いの少ない数学のニコディム教授夫妻(ポーランド)にしろ、ハワイの二世トムにしろ純粋のアメリカ人ではないように書いている所が(「シェリー酒と楓の葉」や「懐かしきオハイオ」を読んでいると、純粋米国人との付き合いも少なくない)孤独な心を持って留学した庄野さんの心の反映のようにも読めます。

 また、一方で、ガンビアの町を特徴づけるいくつかの要素、郵便局、ドロシーズ・ランチ、運動場、ココーシング川、そして、ミノーとのシェリー、あるいはマルティーニと季節の移り変わりや行事を上手く組み合せてくっきりと描いているので、どのエピソードも絵画的ですっきりしています。その結果として、アメリカ中部の片田舎の1950年代後半の生活が、その場所が大学町という特殊な環境であることを差し引いても、生活感をもった現実のものとして読者に迫ってきます。

 この一年間の留学の最後は、ミズーリ大学の助教授のポストに決まって、ミズーリ州コロンビアへ引越すミノーとジューン夫妻の見送りです。その一週間後、庄野夫妻も日本に戻るのですが、隣人がいなくなっての静けさを余韻として示す所が、作品の底流に流れる作者の感性でしょう。

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