愛撫

書誌事項

愛撫
庄野潤三著
短編小説集
初出

 愛撫  新文学  1949年3・4月合併号
 舞踏  群像  1950年2月号
 メリイ・ゴオ・ラウンド  人間  1950年10月号
 スラヴの子守唄  群像  1950年8月号
 会話  近代文学  1953年8月号
 噴水  近代文学  1954年1月号
 恋文  文藝  1953年4月号
 喪服  近代文学  1953年1月号
 流木  群像  1953年12月号

出版 新潮社 1953年12月20日 

紹介

 庄野さんは、処女作「雪・ほたる」を同人雑誌「まほろば」に掲載した後出征、昭和20年に復員すると、大阪府立今宮中学の歴史教師として働き始め、主に同人誌や「文学雑誌」誌に習作を発表しはじめます。そこで力をつけて行き、実質的デビューとなったのが「愛撫」でした。「愛撫」、「舞踏」、「メリイ・ゴオ・ラウンド」、「スラヴの子守唄」、「会話」、「噴水」の一連の夫婦小説は、夫と妻、そして女の子供という組み合わせの家族の、この若い夫と妻との間にある、気持ちの「ずれ」や「すれ違い」が描かれます。この夫婦は、心理的には常時危機的にあるように見えながら、決定的に壊れることなく、あるバランスを保ちます。

 「愛撫」を上梓したときのあとがきに、庄野さんは次のように書きます。『「愛撫」、「舞踏」、「メリイ・ゴオ・ラウンド」、「スラヴの子守唄」、「会話」、「噴水」は、いすれも「愛撫」に続く一連の夫婦小説である。作家である私がこの世における最初の仕事として夫と妻というものをその対象としたのは、全く偶然である。ただこれらの作品が、その当時の私の生活感情の最も痛切な部分から発した物であるということは言える』。この『最も痛切な部分』が、作者の文学に対する不安・将来に対する不安(それは潜在的であり、あるいは顕在的でもあるのですが)に根ざしていることはほぼ間違いがないことのように思います。

 「愛撫」は、結婚して自我を失ってしまった妻の話です。妻の目で一人称で書かれています。結婚することにより、女学生時代のはつらつとした自我を失い、更に、夫との生活の中で失望を重ねて行く様子が描かれます。夫は自分では加害者の意識のない加害者です。今風に言えばストーカー的ねちっこさで妻にあたります。出版社に勤め、将来作家を夢見ていますが、仕事の面では影が薄く、妻が女学生時代に級友から受けた愛撫を問いただす段になると、急に情熱的になる。会社の金を使い込んだことがばれかけただけで怯えて泣いてしまう「だめ夫」が、妻のヴァイオリンの先生が妻の指を触ろうとした話を聞くと、別人のように生き生きとします。そして、この妻は、夫が執拗に質問する熱情を示すことを嬉しく感じているのです。

 「舞踏」も家庭の危機が背景にあります。結婚して5年、3歳の長女のいる夫婦。夫は市役所に勤め、19歳の少女と付き合っている。妻はこのことに気づき、自分から心が離れはじめている夫に不安を感じており、ウィスキーを沢山飲んで急性アルコール中毒のようになったりもします。夫は妻の不満と不安に気づいていますが、新しい恋を止めることはできません。こういう状況の夫婦であっても、妻は巴里祭の日、普段しない二階での食事へ夫を誘います。危機的状況の中でのハレ。二人はダンスを踊ります。不安のなかの一瞬の輝き。このコントラストが見事です。

 「メリイ・ゴオ・ラウンド」も冴えない夫と感受性のつよい夢みる妻とのコンビです。生活の厳しさであるとか妻のエキセントリックな部分などを背景に置きながらも、描かれている光景はとても詩的です。「スラヴの子守唄」も同じシチュエーションの作品ですが(例えば、妻のヴァイオリンや夫の19歳の恋人の話が出てくるところなども含めて)、夫の側の落ち着きと妻の側のエキセントリックな部分の対比の仕方が変わってきています。

 「会話」は、上記4作品から3年ほど経ってから書かれた作品。「愛撫」が妻の目、「舞踏」、「メリイ・ゴオ・ラウンド」、「スラヴの子守唄」が夫婦の目を自在に動かしながら書かれた作品であったのに対して、「会話」は、夫の目で書かれた作品です。夫婦の性格に大きな変化はない様です。夫は薄給の公務員でそれだけでは生活できず、経済的には破綻に瀕しています。こういう危機的な状況の中で夫婦で話される講談の話。浮かびあがってくる妻の性格が面白いです。そして、一連の夫婦小説の最後を飾る「噴水」は、これまで、お互いの心理のひだに関っていた夫婦が、今度は外の世界、高い塀のある洋館に住む気の狂っている奥さんに焦点をあてます。勿論、これはこれまでの主人公夫婦の苦労の投影です。

 「恋文」。1947年「新現実」に発表された同名の作品の修正版です。小学四年生の美貌の女専生・栗林さんに対する思慕。少年の初恋の瑞々しい気持ちが文章のあちらこちらに溢れています。一瞬の輝きを上手く切り取って固定して見せた秀作だと思います。

 「喪服」は、朝鮮戦争当時の大阪の酒場が舞台。かつて私の家の裏に住んでいた蜂谷家の娘を妻にした、当時の高等学校の生徒で現在は紡績会社の課長・増島さんと、そこで偶然に出会います。ここでは、第二次大戦前と現在との時間が二重写しになり、その前年の秋に亡くなった私の父親への供養の気持ちも現われています。タイトルの「喪服」、この酒場に居た、朝鮮へ帰っていく二人の米兵と一緒に居た女の服装です。この女は、作品の上では単なる情景に過ぎませんが、家族を失った作者の思いが反映されていることはいうまでもありません。

 「流木」は、聞書き小説だそうです。大学時代は演劇部で輝いていた男が、就職もせずに、といって本気で演劇に打ち込むこともできずに、失恋する失恋小説です。最後に失恋をした男は、海に身を投げて自殺をはかりますが果せず、田舎に戻って療養します。最後の一文が人を食っています。即ち、「その後は再びもとの丈夫な身体にかえった」

 この処女作品集の背景には、庄野さんの作家として生きていこうとする意志と、それでは生活が成立しないというギャップがあるように思います。また戦争を体験し、身近な人の死を見てきた人の虚無的な感性も認められます。そういう過去の経験と将来への展望の不確かさが、登場人物である夫婦の生活に影を落しています。この夫は、まだ自分の作家としての力量に自信を持てて居ない。そのために、女学生の頃はハイカラで現在も夢見る感性の豊かな妻と、おたがいにかみ合ってこないという感じが致します。この作家としての出発点は、庄野文学50年の結実を知っているものから見ると、感慨一入です。彼の文学的課題の解決のされ方を知っている読者として、作家の原点を再度確認する意味で、本作品集は非常に興味深いものがあります。

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