次男坊

さわりの紹介

 次男坊の正晴君はこの物語の主人公になるぐらいだから、惣領の玉男君とは違っていた。玉男君は極く温順で可もなく不可もない。現に陸軍予備少尉、青年会長、消防組小頭なぞと数々の名誉を荷って、茂作老人を補佐している。正晴君に至っては東奔西走、滅多に郷里に寄りつかない。なまじ主義主張がある丈け厄介だ。行く先々で問題を起す。苟もの初め、生れ落ちる前からして唯事ではなかった。
「あなた、どうも今度は変ですよ」
とお母さんは心配した。それでいつもより早めに産婆に見せると、
「これは私の手一つじゃむずかしゅうございます」
とあった。俗にいう逆さ子で、打っちゃって置くと足から先へ生まれる難物だ。しかし何することも出来ない。産婆が揉んで位置を直しても、一日二日でまた旧の逆に戻る。茂作さんは近くの町の産科院長に頼んで、催しのあり次第に来て貰うことにして置いた。ところが生まれそうでナカナカ生まれない。下男が町へ駈けつける。院長さんが村に乗りつける。産婦はもうケロリとして、
「不思議でございますよ。先生がお見えになると、お腹の痛みが止まってしまいます」
と気の毒がる。こんな騒ぎを幾度も繰り返させた後、正晴君は油断を見澄まして突如呱々の声を揚げた。産婆さえ間に合わない。而も至極安産だったのは、いざという場合にクルリと方向を転換して、規則通り頭から生まれたのである。君子豹変、正晴君は今日でも屡この手を応用する。生来だ。

薀蓄

 本作品は、東海道の街道筋の○○町に近い馬橋村の、村一番の豪農である堀尾家の次男坊に生まれた正晴君の、出生から大学卒業までのエピソードを綴った小説である。昭和2年の1月号から12月号まで、当時講談社から発行されていた雑誌「面白倶楽部」連載され、翌年、単行本が講談社より発行された。
 上記のさわりは、出生時のエピソード。その後、生後三箇月で飼い猿の藤吉郎に木の上に連れ去られ、学校に行く前は、村の子供の伝染病の先駆けに常になり、病みあげる。小学校では全甲で「皆さんは堀尾君をお手本になさい」といわれる。そんなわけで、正晴君は自信の強い子供として成長する。6年次には、学校長に文句ばかりをいう村長の家の池の水を抜いて鯉を獲ろうとして見つかり、それが原因で担任の岡村先生が首になる。中学校時代は、東京出身の先生をやりこめ、峠の雲助達と喧嘩をし、新聞社との諍いに関係する。そのために校長は○○高等学校教授に転進する。正晴君は元校長を慕って、○○高等学校に進学し、更に帝大法科に進む。帝大時代には、級友の妹、奥田道子さんを見初めてプロポーズする。
 以上が梗概。発表時よりも前に時代設定してあるので、明治後期から大正期にかけての立身物語である。この時代は、地方の人間が最高の教育を得ることが難しい時代で、お金持ちでなければ事実上子弟を大学まで進学させることは、中々困難な時代であった。従って、立身物語を書くとすれば、金持ちの息子の進学、としなければ、リアリティがなかったものとおもわれる。書かれているエピソードは、作者の見聞きした体験や、六高(岡山)時代の経験が生かされている(ここに描かれている学制は戦前の制度で、高等学校とは現在の大学1、2年に対応しているなどの、現在との違いがあることをとりあえず記載する)。
 発表の時代は、大正デモクラシーがほぼ終焉し、金融恐慌、普通選挙、3.15事件などが起きる昭和初期である。しかしながら、戦争にはまだ時間があり、円本の発行や、雑誌創刊ブームなど日本人の多くが読書に勤しむようになった時代の作品で、佐々木邦にとっても創作意欲が最も旺盛な時代の作品である。まだ発表の規制の厳しくない時期で、そういった条件がうまく重なって、おおらかな作品に仕上がっている。

 作品は、春陽文庫に収載されていたが、昭和50年前後から絶版。現在読もうとすれば、図書館で佐々木邦全集(昭和49年、講談社)を探してもらうのが一番確実か?

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