夫婦百面相

さわりの紹介

「税務署は正月から三月までが申告期ですから、この間が大切です。奥さんは木戸君の成績が上がるようにと、三月の間塩断ちをして願を込めたのです」
「まあ」
「至誠は天に通じました。木戸君は勤務成績優良、数十名の同輩から抜擢されて、署長に昇進します」
「田淵さん」
 と左近君が口を出した。
「何ですか?」
「あなたはこの間、所得税のことで苦情を言っていられましたな」
「はあ」
「木戸君の細君のような心得違いの女は世間迷惑です。税務署員の成績優良というのは、税をモリモリ取り立てることに外なりません。現に私も郷里に猫の額ほどの田畑がある為めに、ひどい目に会っています。貞女は貞女でしょうが、塩断ちして人民を誅求させるのですから、決して美談とは言えませんよ」
「これは恐れ入った」
「そんな利己的秘伝が世間に広まって御覧なさい。日本中の税務署員の細君が塩断ちをして、願を込めますよ。それが一々至誠天に通じた日には、日本中が塗炭の苦しみに陥りましょう。ハッハハハ」
「成程、それも一理ですな。ハッハハハ」
 と田淵さんはお説法の鼻を折られて、間もなく辞し去った。
「痛快痛快。直子や、金槌を持って来い」
 と左近君が命じた。
「何をなさいますの?」
「何でも宜い。それから釘だ。俺について来い」
「何処へいらっしゃいますの?」
「何処でも宜い。強情を張るな」
「はいはい」
 と直子さんは従った。左近君は門へ行って、自分の標札を第一位へ直したのみならず、釘で打ちつけて、
「若し禿げ頭がこれを動かしたら、直ぐに引越す。そのつもりで居ろ」
 と冒し難い色を示した。
「乱暴ね」
 と直子さんは呆れるばかりだった。
 翌朝、左近君は岡本君を誘って、
「君、好いものを見せてやる」
 と言った。岡本君は丁度出勤の支度が出来たところだった。
「何だい?」
「門へ行くと分る」
「昨日の一件かい?」
 と岡本君は門を出ると直ぐに、
「成程、一番にしたね。君はこんなことがそんなに気になるのかい?」
 と感心した。
「これで漸く清々とした」
「しかし、田淵さんが動かすから駄目だよ」
「能く見給え」
「やあ、釘でやったね」
「他の人のは動いても、僕のは永久に一番だ。この釘を抜くようなら喧嘩さ。僕は直ぐに引っ越すよ」
 標札は二三日、そのままだった。
「大将、兜を脱いだね」
 と左近君は得意だった。
「いや、気がつかないんだよ」
 と岡本君は意見を異にした。後者が当っていた。二人は或朝、旧の順位が逆に整っているのを認めた。左近君は釘づけのまま、右から一番だけれど、木戸、中村、岡本と左から勢揃いをしていた。
「畜生!」
 と左近君が呟いた。
「先は好い順だったが、今度は悪い順だね。君は釘づけだから、永久に一番だよ」
 と岡本君が諢った。円満居士、何処までも茶目をやる。

作品紹介

夫婦百面相は、昭和4年1月号〜12月号にかけて「主婦之友」に連載された長編小説です。

佐々木邦の作品は、よく昭和初期の小市民の生活に焦点をあてて描いた、という言われ方をしますが、この『夫婦百面相』は巷間言われる佐々木邦の特色を最も典型的に示した一編といえるかも知れません。

主人公は、結婚7年目にして三人の子持ち、会社でも中堅の岡本君とその妻の菊代さん。この岡本君夫妻を軸に、その周囲の人との関係を通して、夫婦の色々な面を描くという意味での百面相です。周囲の人はまず先輩の田淵さん。この方は50歳を越した「無任所で課長俸を喰む」人ですが、財産家で、300坪ほどの敷地に自宅の他に7軒の家作を持ち、会社の若い同僚に、安く借家を貸しています。綽名は円満居士。岡本君をはじめ、左近君、中村君がこの家作の住人です。田淵さんは、温厚な紳士で若い同僚と喧嘩するようなことはありませんが、若い人達の生活挙動には関心を示して、善導しようという意志があります。大家と言えば親も同然を、絵にでも書いたような人と言っていいかもしれません。そこで、店子の生活を見て順位をつけ、毎週表札の並び順を変えるというお茶目をやります。

岡本君は「三顧の礼」をもって菊代さんを妻に迎えたのですが、結婚7年目、子供も3人ともなりますと、いつまでも結婚前の甘いムードで妻に接するわけにはいきません。どうしても邪険に当ってしまいます。しかし、昔菊代さんと結婚する時の奮闘ぶりは、菊代さんの実家に筒抜けですから、それを言われると弱い。そのうえ、もともと妻に対する愛情は深い人ですから、トラブルが起きても直ぐに修復します。中村君はもっと君子で、借家のなかで妻と紛争を起こすようなことはしません。一方、左近君は、奥さんが焼餅焼きのところもあって、紛争が絶えません。

税務署に勤める木戸君が、出世して地方の税務署長になることになり、岡本君の会社の同僚・黒川君が店子になります。黒川君は外に対しては如才ない遊び好き、一方、奥さんに対しては無類の亭主関白です。黒川君は田淵さんの借家に移ると、早速岡本君、左近君を誘って、神楽坂の待合で飲むことを考えます。最初は歓迎会で飲み、つぎにその返礼会、そして歓迎会返礼会記念会と続きます。これには遊び好きの岡本君・左近君といえどもたまりません。

このトラブルメーカー・黒川君は、結局借家から追い出され、遂には会社の人員削減のあおりを受けて、首になってしまいます。岡本君は難を逃れ、その幸運を菊代さん共々喜ぶのですが、最後にみそをつけます。岡本君は一旦菊代さんに渡したボーナスから、待合の借金の精算の為に70円貸してくれと言い出します。とたんに菊代さんは「しみじみ仰って下さったと思ったら、やっぱりずるいのね」といい、岡本君は折角の誠意に割引がついたと悔やむのでした。

日本で本格的にサラリーマンが登場するのは大正期ですが、昭和初期はまだ都会のエリートでモダンな存在でした。その当時、岡本君とその周囲の人たちのようなサラリーマンがいたとは、一寸信じられないのですが、そのメンタリティは同時代性があふれるものだったと思います。特に「主婦之友」の読者達にとっては、菊代さんに自分の姿を投影していたのかもしれません。

尚、家主と店子というシチュエーションは佐々木邦の好みだった様で、このシチュエーションで「奇人群像」が書かれています。

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