ぐうたら道中記

さわりの紹介

「坊ちゃん、あれが京都のドンですよ」
 と星野さんが教えて呉れた。成程ピューウというような汽笛が尻上りに喧しく鳴り渡っている。
「あれがかい?ドンまで間が伸びているね」
 と団さんが貶した。
「うむ。未だ鳴っている。ああ長くちゃ聞いても痛切に腹が空らないね」
 とお父さんも言った。
「ドンといえば大砲に限ると思っているところが浅ましい。君達は考えないから困るよ。口では軍国主義を否定しても、国民挙げて時計の針を陸軍の大砲の音に合わせているんじゃ、外国人が本気にしない。ところが流石に平安城都のドンは違ったものだろう?全然平和の音だからね」
「然う来られると一言もない。矢っ張り牧師は着眼点が違うね」
 と三輪さんが感心した。
「日本の大都会で軍隊に時間を支配されていないところは独り我が京都あるばかりさ。この点丈けでも洛陽は誇るに足りるよ」
 と星野さんは京都に帰化したと言っている丈けに頗る西京贔屓だ。
「何も宗教家は解釈が我田引水だから気に入らない。あのドンにそんな国際人道的の意味があるもんか。仮りに東山あたりで、毎日大砲を打つとして見給え。折角の保護建造物が皆ガタガタに狂ってしまうぜ。そこで、骨董大切の窮策があんな妙な悲鳴を挙げているのさ。間が伸びていて而も実用的なところは表向き丈け悠長で肚の中の悪ごすい西京人の特性を遺憾なく現している」
 と団さんは遠慮のないことを言った。
「矢っ張り商売柄建造物の保護とすぐ分るんだね。実際然うさ。便宜上の問題だけれど、結果から言うと京都では芸術の権威が武力を沮み止めていることになるだろう」
 と星野さんは主張した。
 間もなく女中がお膳を運んで来た。
「あんなドンでも矢っ張りお昼ご飯が出るのね」
 と田鶴子さんが内証で僕に言った。これだから躾は大切だ。子供が何でも親の真似をする。
「京都は鱧が名物と見えるね?鱧ばかり食わせる」
 と団さんはそんな事情には頓着なく大胡座をかいたまま箸を執った。尤もきちんと坐っているものは一人もいない。星野さんまで立膝をして爪先に貧乏揺すりという奴を演じさせている。礼儀作法は不公平なものだ。女と子供丈けに正座を要求する。
「魚の不便なところだから不漁の時の用心に鱧を囲って置くのさ。此奴はこんなに骨っぽい丈けに寿命が強いそうだからね」
 と星野さんが答えた。
「叡山に鱧を献ずというから京都人は昔から鱧を利用したもんだね」
 とお父さんが言うと、団さんは、
「坊主が鱧を食うのかい?」
「否、漢字の覚え悪いという例に持ち出す文句さ。『叡山に鱧を献ず』と即座に書ける人は滅多にない」
「成程ね、僕にしても確信のあるのは山という字ぐらいなものだ。閑人丈けに君は妙なことを知っているね」
「鱧はこれでナカナカうまいよ。しかし京都の名物は一体何だい?」
 と三輪さんが訊いた。
「さあ、余り名物も無いね。『京の着倒れ大阪の食い倒れ』というほどだから、此処ヘ来たら食う方は諦めるんだね。八ツ橋に五色豆、蕪の千枚漬けにすぐき漬けぐらいのものさ」
 と霊の糧を扱う星野さんは肉体の栄養物に興味を持っていないらしい。停車場の売子の呼声をその侭取継いで呉れた。

薀蓄

 「ぐうたら道中記」は、大正11年1月から12月まで14回にわたって「主婦の友」に連載された作品である。月刊誌「主婦の友」に14回連載されたということは、別冊にも連載されたのか、1号に2回分載ったことがあるということだが、その辺の詳細は不明である。

 佐々木邦は「ぐうたら道中記」を連載する前年、「珍太郎日記」を同誌に連載し、好評で迎えられた。完結後、同誌のために次の作品を要求され、旅行記という形態の新たなユーモア小説を寄稿することになった。滑稽な旅行記は十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が有名だし、紀行文自体は明治・大正期に好く書かれていた。佐々木邦の新しさは、現実には旅行の経験などほとんどなかった家庭の主婦のために、観光ガイドも兼ねた、いながらにして各地に誘うものを作り出したということにある。

 中学一年生の「僕」が、お舅さんに『ぐうたらべえ』と呼ばれている父親と、その親友である英語教師の三輪さん、建築技師の団さん、団さんの娘田鶴子さんの四人と一緒に旅行する。主人公は明らかに三人の大人。「僕」は大人の言動や旅行先で起きた珍事件を記録するという体裁である。

 最初の旅行は、沼津、静岡、浜松、名古屋、伊賀上野、奈良、京都を回って大阪まで。ニ回目の旅行は下関から、門司、福岡、佐賀、長崎、熊本を廻って鹿児島まで、である。それぞれ旅行先にいる知人・友人・親戚の案内で観光名所を見物し、名物を食する。その間、三人の大人は無遠慮にも地方の特徴をくすぐる。

 昭和期の佐々木邦は、シニカルな目を余り表に出さずに作品を書いたが、大正期はかなり皮肉な表現を多いに使っている。大人の会話を子供が記録するという形式のため、若干緩和されている部分もあるが、上記の「京都」に対する見方でもわかるようにかなり辛辣な言い方をしている部分もある。これが、大正期の佐々木邦の特徴でもあった。

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