脱線息子

さわりの紹介

 汽車の動き出すのを待っていたように、寛一君は、
「君、往生際が好かったね」
 と冗談に託して感想を洩らした。
「うん?」
「案外往生際が綺麗だったってことさ」
「何を言いやがるんでい」
 と新太郎君は見かけほどに悄げていなかった。
「悪に強いものは善にも強いっていうが、矢っ張り然うだね。看病をしましょうか東京へ帰りましょうかと神妙に恐れ入って、ジタバタしなかったところは見上げたものさ」
「この上罪人扱いにするなよ。斯うやって縄つきにして引いて行く丈けで沢山だろう?」
「君、誤解しちゃ困るぜ」
「巧く言っているよ」
「そんな風に気を廻されちゃ迷惑千万だ。君が斯う直ぐに折れると思わなかったから、昨日からの心配ってなかったんだぜ。手紙じゃもう間に合わないし、電報じゃ充分意志が通じないし、マザーと二人で青息吐息さ」
 と寛一君は頻りに弁解を始めた。宿ではガワ゛ナーと差し向かいで頭ばかり下げていた。途中は見送ってくれた松浦さんと俊男君の手前控えていたので、その機会がなかったのである。
 新太郎君は疑いが晴れると共に、
「ガワ゛ナーは真正に悪いのかね」
 と父親の病気を問題にした。
「真正とも。不眠症さ」
「まさか僕を連れ戻す為の計略じゃあるまいね」
「僕も最初は然う考えて見たが、それまでにしなくたって他に方法は幾らでもあるんだから、矢っ張り真正に悪いんだと思う」
 と寛一君の結論は如何にも道理だった。
「然うだろうなあ。顔色も冴えなかった」
「君のことを気に病んでいるんだ」
「ガワ゛ナーこそ鬼瓦の生まれ更りで神経衰弱なんて柄じゃないんだがなあ」
「あの病気だけは見かけによらないからね」
「変なこと言うなよ」
「実際の話、不眠症は君も経験があるじゃないか?」
「知らん」
「ガワ゛ナーのこそ真物だろう。主人だから仮病を使う必要がない」
「もうよしてくれ。弱みにつけこんでグイグイやりあがる」
「ガワ゛ナーの気象じゃ少しぐらい悪くたって転地なんかしない。能く能くだよ」
「僕もそう思った。先刻『お前がしっかりしてくれれば俺は寝られる』と言っただろう?あの時僕はガクリと来た。手足の関節が利かなくなったような心持がした」
 と新太郎君には父親の病気が何よりの強意見だった。

薀蓄

 「脱線息子」は、昭和2年7月から3年7月まで13回にわたって「キング」に連載された作品である。

 キングは講談社の創始者・野間清治がかねてから構想を練っていた国民雑誌であり、大正14年1月に創刊された月刊誌である。その狙いは「日本一面白い、日本一為になる、日本一安い雑誌」で、創刊時の激しい宣伝は後の語り草である。そのような大雑誌が創刊されたことにより、大衆向け作家の需要が増える。佐々木邦は創刊された大正14年10月号から「親鳥子鳥」の連載を行い、キングの売上伸長に貢献した。この貢献が利き「脱線息子」の執筆に結びついたものと思われる。そして、この作品の執筆に前後して、長年勤めていた慶応義塾大学予科の教授を辞め、執筆活動に専念する。即ち、「脱線息子」こそが、昭和初期の講談社文化における佐々木邦の位置を決めるきっかけになった作品であると思う。

 銀座の大きなラシャ問屋寿商店のひとり息子、西川新太郎君は、大学出の新学士ではあるが、母親に甘やかされて育ち、わがまま一杯で商売に身が入らない。昨年、逗子に海水浴に行って、もと旗本の家柄であるという松浦家の令嬢秀子さんを見初める。今年は実家の商売を手伝っているので休みが取れないので、神経衰弱の仮病を使って、六月から逗子に転地療養に出かける。いとこの寛一君は、新太郎君と同級で○○大学の同窓。特に請われて、寿商店に就職した訳である。新太郎君は、寛一君の力を借りて、秀子さんの気を引こうとする。

 新太郎君の父親、「ガワナー」は立志伝中の人。15の時に箱根山を夜通し逃げてきて、小僧から番頭と全部自分で仕上げて、今の身代を作ったという人。顔は「鬼瓦」のようで商売一筋の昔気質。でも苦労人なので、息子の恋愛の成就に助力する。

 主人公の新太郎君は、「脱線息子」ではあるものの、明朗で快活な当時の現代青年。相手の秀子さんも、勝気でわがままだけれども、男女同権の意識を持った当時の現代女性。このモダンな青年男女が、昭和初期にもなって「士族」の身分に拘泥するかたくなな秀子さんの母親の抵抗を巧く封じこめて(封じこめたのは新太郎君ではなく回りの恋愛応援団の人々)ゴールイン。いわゆる、佐々木邦らしい上品で快活なユーモア小説である。

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