夕べの雲

書誌事項

夕べの雲
庄野潤三著

初出
日本経済新聞夕刊 1964年9月6日より65年1月19日まで(127回) 

出 版 1965年3月 講談社

紹介 

 昭和36年4月、庄野潤三一家は、東京都練馬区南田中町の家から、神奈川県川崎市生田の山の上に新たに家を建て引越します。それから三年半経って、ようやく彼は、新居の生活を小説に綴ります。この東京郊外の山の上での生活を綴りはじめた「夕べの雲」こそが、庄野文学の最初の一大転機であり、庄野文学が庄野文学らしさを獲得した最初の長編作品だったということができるだろうと思います。

 庄野さんは、2002年の「Kunel」という雑誌のインタビューで、「夕べの雲」について次のように語っています。

 「たぶん、『夕べの雲』というのがね、私の大きな転換点だと思うんですけどもね。ここに引越してきて、家のまわりの木がつぶされていくのを、子供たちと一緒に惜しんで、眺めてきたのがこの本のいちばん大きなモチーフだったんです」
 そして、更に、
 「もともと空想して書くというのが、好きじゃないんですね。自分の見聞きしたものの中から、心に訴えてきたことを書くというほうがずっと好きなんです」
 ともいっています。

 結局のところ、庄野文学がフィクションという枠を外して、あるいはフィクションのこだわりを外したところの最初の作品が「夕べの雲」であり、昭和34年1月に発表した随筆「自分の羽根」で宣言した文学観を最も端的に描いて見せた最初の作品が、「夕べの雲」でした。そして、その作品に描かれた生活が、主人公の大浦が「身すぎ世すぎの本を書く仕事」であることを別にすれば、ごく普通の市民の生活であり、その普通さ故に、その家族の纏りや体験に読者は共感を持てるのだろうと思います。

 庄野さんが、練馬の家から生田の山の上に引越す経緯は、次の通りです。練馬の家が車やオートバイの音で堪え切れなくなって、引越そうと適当な土地を探し始めた庄野さんが、不動産屋に案内されて来た生田の山の上の土地は、駅から「行けども行けども、まだ現われない」という所にありました。ここは、もともと芝生屋が持っていた土地で、まわりは山だが、地所には木が一本もない、見晴しは素晴らしい、というもので、庄野さん夫妻は一目で気に入ったそうです。そのうえ、明るくて、見上げると、いつも空が見える、まわりが全部空である、それが嬉しかった、と書いておられます。このように期待に満ちて引越したわけですが、現実はそう甘くはなかったようです。「夕べの雲」本文にはこうあります。

 『何しろ新しい彼らの家は、丘の頂上にあるので、見晴しもいいかわり、風当りも相当のものであった。三百六十度そっくり見渡すことが出来るということは、東西南北、どっちの方角から風が吹いて来ても、まともに彼らの家に当るわけで、隠れ場所というものがなかった。』

 これに対処するために、風除けの木を植えなければならない、と大浦は思います。でも、新しい土地に引越してくると、まず差当ってしなくてはならない用事がいっぱいあり、それを片付けないことには動き出せないのです。そうしているうちに、風除けの木を植えるという仕事はどんどん遅れて行くのです。とりあえず、そのような引越しに伴う色々な用事が片付き、平穏に生活できるようになるまで二年ぐらいの日時がたちます。

 そして、ようやく引越しから三年半たって、ようやく庄野さんは、引越し以来の新しい生活を文字にたくそうとします。この三年半の助走期間に、庄野さんは、庄野一家の絆、というものの強さを認識したのではないでしょうか。この作品以前の庄野文学に流れるモチーフは、家族の脆さであり、あるいは死への近しさ・無常感であったわけですが、この作品において、そのような人生、あるいは家族に対する負の要素はほとんど抑制されて描かれます。むしろ、自然の美しさ、強さ、激しさと、そこに住む人たちの向日的姿が描かれます。それが大浦、細君、晴子、安雄、正次郎の五人家族でした。

 勿論、自然も人間も変わるものです。実際、大浦が引越した当時、この山の上の家からは、「中学の道」、「真ん中の道」、「S字の道」、「森林の道」、「マムシの道」と名付けた、多様な道がありました。大浦一家は、これらで散歩を楽しみ、山の動物や昆虫を知り、植物を知ります。えびねも「あーおーの木」の下の群生を見つけます。これらの道は、彼らが引越して来た時には決まっていた、住宅団地の造成によって、その後無くなってしまうのですが、それまで、彼らは、多摩丘陵の自然と最大限に親しもうとします。

 そういう家族の動きを、冷静に且つ克明に捕らえるのが大浦の目です。大浦一家の出来事で、大浦の目に止まらぬものは何もないという様相です。大浦の旅行中に家に落ちた雷も、天井から落ちたムカデも全て彼の目を通して語られ、咀嚼されます。即ち、家の出来事は、それが子供の体験であったとしても、大浦の目で、あるいは大浦の選択で語られるのです。阪田寛夫は、「庄野潤三ノート」において、『大浦は一家の「生活の経験」の管理者という性質がつよい。そしてまた彼は、一家の理性と感受性をも代表している。』と書きました。

 この理性と感受性こそが、この作品の抒情感を支えている源であり、この理性と感受性を作品にストレートに反映させたことこそが、この作品から始まる、新しい庄野文学の起点だと思います。恐らくこの転換は、庄野一家の生田への引越しが契機になっており、その三年半の助走期間によって得た大きな果実であったのだろうと、私は思います。

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