静物

書誌事項

静物
庄野潤三著
初 出 

静物   「群像」 1960年6月号
  「群像」 1959年11月号
五人の男   「群像」 1958年12月号
相客   「群像」 1957年10月号
イタリア風   「文学界」 1958年12月号


出 版 1960年10月 講談社 

1960年11月 第17回新潮社文学賞受賞

紹介 

 「静物」が、庄野さんの初期の代表作であることは疑いありません。ここで、彼は、エピソードの断片を繋ぎ合せて、全体として一つの流れを示すという手法をはじめて使用しています。このような形式は、彼の最初からの意図かもしれませんが、苦し紛れに生み出した形式、という可能性もあるようです。

 1998年5月に日本経済新聞に連載した「私の履歴書」に、「静物」を執筆した時のエピソードが載っています。引用します。

 『アメリカから帰国した翌々年に、私は「群像」に少し長いものを書く約束をした。一挙掲載という企画で、安岡章太郎が苦労して「海辺の光景」を書き上げた。私は自分もやってみたいと考えた。三十四年の春からとりかかった。兄英二が親しくしていた紀州の九度山の知人の紹介で、そこの宿屋に泊まり込んだが、一枚も書けなかった。この年は、「群像」の小説のことばかり考えて、仕事はちっとも進まないままに日が過ぎて行った。芥川賞のあと会社をやめたので、生活は苦しくなった。
 この年の暮に早稲田の大隈会館で古木鉄太郎さんを偲ぶ会があり、出席した。会場で久しぶりに会った佐藤春夫先生にごあいさつすると、「どうしておるのか」と訊かれた。多分、「群像」の大久保房男編集長から私が長いものを書くといいながら、一向に仕事がはかどらないでいることを聞いて気にしていて下さったのだろう。
「書こうとしているんですけど、書けなくて」と申し上げると、「どうして書けないか」とおっしゃる。
「書きたいことはあるんですけど、それがみなばらばらで、つながらないんです」
と申し上げると、佐藤先生は、
「先ず一として一つ書いてみるんだな。次にニとしてもう一つ書く。あとで順番を入れかえたほうがいいと気づいたら、三と四を入れかえる。とにかく、考え込んでいないで、先ず書き出してみることだね」
 とおっしゃった。
 ありがたいおことばである。私は深くおじぎをして佐藤先生の前を離れた。』

 庄野さんの年譜を見てみると、1959年11月に「蟹」を発表したあと、60年の6月に「静物」を発表するまで、一切発表作がないようです。この時期「静物」にかかりっきりになって、苦労した様子が窺えます。しかし、この苦労と佐藤春夫のアドヴァイスは、珠玉の作品として結実しました。当初200枚を予定して書かれた作品だそうですが、出来あがりは100枚強となり、余計なものを削ぎ落としたエッセンスの凝縮された作品となっています。

 庄野さんは、江國香織さんとの対談で、「もう初期の作品は読みたくないです」とおっしゃっているのですが、一方で、自分の代表作は、この苦労した「静物」と「夕べの雲」であるともおっしゃっているので、愛着の深い作品なのだと思います。

 作品はエピソードの断片を並べてでき上がっているのですが、その繋ぎ合せに大きな流れがあります。大きな流れとは、第1エピソード『「釣堀へいこうよ」と男の子がいい出し、小学五年の女の子も「行ってみたら」と勧めるので、重い腰を持ち上げた父親が釣堀で金魚を釣る話』で釣り上げた金魚が段々大きくなるようすです。この金魚は、最後のエピソードでは、蓑虫を見ている夫婦の脇で、出窓の上の金魚が水槽にできた水苔を一寸つついて見せるのです。この金魚の成長がこの静物画を並べたような作品のプロムナードのようです。

 ムソルグスキーの「展覧会の絵」は、展覧会の多彩な絵を色彩豊かな音楽で描いて見せますが(これはラヴェル編曲のオーケストラ版だけではなく、オリジナルのピアノ版もそうです)、庄野版「展覧会の絵」は、全てのエピソードが静物画であり、派手なものは全くありませんが、どれもが印象がくっきりと残りすこぶる絵画的です。この一寸冷静で、それでいて印象が明晰に残るのは、無駄を徹底的に省いた文章の力によるものでしょう。

 評論家の平野謙は、「静物」を「一たん壊れた家庭の幸福を再建する物語」と評したそうですが、これはある程度頷けます。庄野さんの初期の作品は、家庭の脆さや不幸、あるいは日常の不安や危機をテーマにしているわけですが、「静物」では、そういう初期の作品のテーマが明示されることはないものの、文章の裏側にはそれらが潜んでいて、影として浮かびあがります。静物画の身上が光と影のバランスとすれば、絵画を思わせるこの作品は文章の光と影で傑作とならしめています。

 「蟹」は、家族で行った海水浴に題材をとった作品。絵描きの来る宿屋で、部屋の名称が「セザンヌ」、「ブラック」、「ルノワール」。この作品は、「静物」の筆が進まなかった時期に、気分転換のように書かれた作品ですが、「静物」への意識が投影されているようです。しかし、描かれているエピソードは絵画的というよりも音楽的です。3つの部屋の子供たちが、それぞれの部屋の中で、同じ歌を合唱するところがとても良いです。

 「五人の男」は、庄野さんがめぐり合ったどうも幸福とは言えない五人の男の人のエピソードを並べたものです。この五人に共通するのは「孤独」のようです。この五人の孤独(それぞれ別の形では現われてきていますが)を描くことによって、作者の孤独の感覚を浮きあがらせているようです。

 「相客」のなかに次のような一節があります。「本人が真面目であるのに、物事がちぐはぐにうまい具合に行かないのを見る時には、滑稽な感じを伴うものである」。そういう小さなエピソードを置いた後、兄が戦犯として逮捕され、巣鴨に送られるときの送別のエピソードが語られます。これは、一つ間違えば死に繋がる切迫した状況ですが、はたから見れば、滑稽な感じかもしれません。

 「イタリア風」は、ガンビア滞在時の終わりころに行った東部旅行に題材をとっています。かつて東海道線の車中で出会ったイタリア人と再会するお話です。日本では新婚旅行をしていた筈なのに、二年後アメリカでは奥さんと別居しています。アンジェリーニ氏の家に行くと、両親と妹との四人で暮らしているのですが、矢口(庄野さんですね)は、四人とも皆違っていると感じます。この四人の違いを描くことにより、アンジェリーニ氏の孤独が浮かびあがります。

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