サヴォイ・オペラ

書誌事項

サヴォイ・オペラ
庄野潤三著
初 出 「文藝」(河出書房新社)1984年6月〜1985年7月
出 版 1986年3月31日 河出書房新社 
定 価 2000円
ISBN4-309-00431-8 C0095

紹介 

 サヴォイ・オペラとは、1870年代から1890年代にかけて絶大な人気を誇った、ウィリアム・S・ギルバートが台本を書き、アーサー・サリヴァンが作曲したイギリスの喜歌劇の総称です。そこで、ギルバート・サリヴァン・オペラとも言います。作品数は13。書き出して見ると(タイトル、初演劇場名、初演日の順)、

『陪審裁判』 ロイヤルティ座(1875年3月25日)
『魔法使い』 オペラ・コミック座(1877年11月17日)
『軍艦ビナフォア』 オペラ・コミック座(1878年5月25日)
『ペンザンスの海賊』 オペラ・コミック座(1880年4月3日)
『ペイシェンス』 オペラ・コミック座(1881年4月23日)
『アイオランシ』 サヴォイ座(1882年11月25日)
『アイダ姫』 サヴォイ座(1884年1月5日)
『ミカド』 サヴォイ座(1885年3月14日)
『ラディゴア』 サヴォイ座(1887年1月22日)
『古城の衛士』 サヴォイ座(1888年10月3日)
『ゴンドリア』 サヴォイ座(1889年12月7日)
『ユートピア国、有限会社』 サヴォイ座(1893年10月7日)
『大公爵』 サヴォイ座(1896年3月7日)

 この中で日本で最も知られているのは、「ミカド」ですが、それでも上演回数の多いオペラではありません。それにもかかわらず、庄野さんがこの作品を取り上げたのは、「実をいうと、私は愚か者が好きなのです」(チャールズ・ラム)という言葉を生前好んで取り上げた福原麟太郎さんが、随筆や評論に「サヴォイ・オペラ」のことを取り上げ、庄野さんがそれらの随筆や評論を読むことにより、「サヴォイ・オペラ」への興味が生れ、育まれた、ということによります。

 庄野さんは、レズリー・エア著「ギルバート・サリヴァン必携」やエリック・ウォルター・ホワイト著「英国オペラ史」など沢山の参考資料を駆使しながら、この評伝とも随筆ともつかぬお話を進めていくのですが、「サヴォイ・オペラ」を書くにあたっては、結局、『芝居、芸能というものに対する福原さんの考えかた-それは結局、人生観ということになるのだが-への深い共感が無ければ成り立たない仕事である。』として、福原さんへの共感を前面に出してお話を進めます。

 実際の本篇は、サリヴァン作曲の一幕ものの喜歌劇『コックスとボックス』(これは、ギルバートの台本ではなく、バーナンドの台本)がアデルフィ座でロンドン初演が行われた後、「ファン」誌にサリヴァンの音楽を褒める匿名の批評(この評者はギルバートと思われる)が掲載されたことから始まり、二人の仕事が結びついて、『陪審裁判』から『ペンザンスの海賊』に至るサヴォイ・オペラの興隆期を描きます。

 その内容は、各種資料に基づいた精緻なもので、ギルバートやサリヴァンの生い立ちや、二人が出会うようになった経緯、プロデューサーのリチャード・ドイリーカートのこと、作品の内容、初演時の配役からエピソードまで細かく記して行きます。しかし、この作品が単なる評伝に終らないのは、そういう主たる筋のほかに、庄野さんで無ければ決して書かないような感想や説明が入ることです。例えば、サヴォイ・オペラの初期の上演劇場であった「オペラ・コミック座」について書くとき、パリの有名なオペラ・コミック座を引き合いに出し、そこによく通った人として河盛好蔵さんをとりあげ、河盛さんの随筆を引用します。勿論、サヴォイ・オペラの歴史を語る上で、河盛さんが、コメディ・フランセーズで、彼が留学していた足掛け3年間で上演された471本の内、彼が72本ご覧になっている、ということはどうでもいいことであるけれども、こういう先駆者がいたことで、庄野さんはまだ見ぬパリのコメディ・フランセーズやオペラ・コミック座に親しみを覚えるのです。

 この庄野さんの『サヴォイ・オペラ』は、全体で28章からなります。それぞれの章の内容を簡単にまとめておきますと、

第1章:福原麟太郎の英国留学とヴィクトリア朝への憧憬(ちなみにサヴォイ・オペラの隆盛期は、ヴィクトリア時代の末期と重なります)
第2章:サヴォイ・オペラ概説と『コックスとボックス』でのサリヴァンとギルバートの接近。
第3章:ギルバートとサリヴァンとを結びつけた人たち
第4章:ギルバートの経歴と『陪審裁判』のお話しの前半
第5章:『陪審裁判』のお話しの後半と福原麟太郎のサヴォイ・オペラに関する随筆
第6章:カール・ローザ歌劇団についての福原麟太郎の随筆の紹介とロイヤリティ座について(ここで、ロイヤリティ座はもともとファニー・ケリーが建てた学校で、ファニー・ケリーはチャールズ・ラムが贔屓していた女優さんであり、ラムがラブレターを出して断られた、という主筋とは関係の無いエピソードが挿入されている)
第7章:サヴォイ・オペラで指揮者として活躍したセリヤー兄弟と慈善興業。
第8章:『陪審裁判』の色々な上演
第9章:『陪審裁判』から『魔法使い』上演の間のギルバートとサリヴァン
第10章:ギルバートとサリヴァンの幼少時代
第11章:オペラ・コミック座について
第12章:演技陣の要、ラットランド・バーリントンとジョージ・グロスミス、そして『魔法使い』の物語(前半)
第13章:『魔法使い』の物語(後半)
第14章:ギルバートの作品の材料探しと河上徹太郎の「オペラ・コミック」に関する随筆の紹介。
第15章:『軍艦ビナフォア』の人気ぶりに関する挿話
第16章:『軍艦ビナフォア』の成立と日本オペラ興隆期における『軍艦ビナフォア』の上演
第17章:『軍艦ビナフォア』の練習。練習におけるギルバートのエピソード
第18章:『軍艦ビナフォア』の練習。練習におけるギルバートとサリヴァンのエピソード
第19章:『軍艦ビナフォア』のお話(その1)
第20章:『軍艦ビナフォア』のお話(その2)
第21章:『軍艦ビナフォア』のお話(その3)
第22章:『軍艦ビナフォア』の成功に伴う混乱。四人の重役とプロデューサー・ドイリーカートとの対立。
第23章:『軍艦ビナフォア』のアメリカでの海賊版の横行と、米国での上演
第24章:ギルバート・サリヴァンの米国旅行と、『ペンザンスの海賊』の作曲
第25章:『ペンザンスの海賊』の英国初演についてと、その物語(その1)
第26章:『ペンザンスの海賊』の物語(その2)
第27章:『ペンザンスの海賊』の物語(その3)と子供版の上演
第28章:子供版の上演と付録として『ミカド』の成立について

 となります。即ち、作者があとがきで書いているように、

 『書名は「サヴォイ・オペラ」だが、私が辿ることが出来たのは、『軍艦ビナフォア』(1876年)の大成功によって、ギルバートとサリヴァンの合作による喜歌劇が商売としても甚だ有望なものであること、興業師としての自分のカンに狂いがなかったことを証明されたのに力を得たドイリーカートが、更に『ペンザンスの海賊』を送りだし、ごれがまた『軍艦ビナフォア』に引けを取らない大当たりとなるあたりまでであり、劇場もドイリーカートがストランドの通りとテムズに沿った遊歩道ヴィクトリア・エムバンクメントの間に建てた全館電気照明の最新設備を誇るサヴォイ座にまだ移っていないオペラ・コミック座時代の話だから、厳密にいえば「サヴォイ・オペラのはじまり」という題にしたほうがいい。』

 ということなのでしょう。

 この庄野さんの『サヴォイ・オペラ』で日本に於ける『サヴォイ・オペラ』の理解が進んだものと考えられますが、福原さんの書かれた日本での『サヴォイ・オペラ』の上演に関しては、明かな誤りがあります。福原さんは日本で上演されたサヴォイ・オペラは、「ミカド」と「軍艦ビナフォア」だけだとお考えだったようですが、私(どくたーT)の調査によりますと、日本で上演された経験のあるサヴォイ・オペラは、下の表の通りです。参考までに挙げておきます。

タイトル 初演年 上演団体 コメント
コックスとボックス 1870年   横浜の個人による上演。ピアノ伴奏だったらしい。この作品は、サリヴァンの作曲ではあるがギルバートの台本ではないので、通常サヴォイ・オペラとは言わない。
陪審裁判 1878年   横浜のアマチュア劇団による上演
魔法使い 1887年 横浜合唱協会 英国系居留民によるアマチュアの上演。日本人初演は1920年旭オペラ座による日本館での公演
軍艦ビナフォア 1881年 横浜合唱協会 英国系居留民によるアマチュアの上演が初演。ロンドン初演(1878)の僅か3年後の出来事で、総譜出版前の出来事。日本人初演は1918年原信子歌劇団による駒形劇場での公演。浅草オペラの人気演目の一つで、延べ14ヵ月の上演記録があります。
ペンザンスの海賊 1885年 マスコット歌劇団 1886年、横浜居留民による上演記録あり。日本人初演は1919年旭オペラ座による日本館での公演。浅草オペラでは延べ6箇月の公演。
ミカド 1947年 長門美保歌劇団 第二次世界大戦前の日本では上演禁止であったが、1887年サリンジャー一座の横浜公演で「卒業した三人の乙女」のタイトルで、改変版が上演されている。
乳しぼり女ペイシェンス 1882年 横浜合唱協会 1885年マスコット歌劇団も上演。日本人初演は1921年根岸大歌劇団による金竜館での公演。浅草オペラでは延べ3箇月の公演。

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