ピアノの音

書誌事項

「ピアノの音」
庄野潤三 作
1997年4月18日発行
273ページ
講談社刊 1700円(税別)
ISBN4-06-208628-X C0093
発表: 群像1996年1月号〜1997年1月号(1996年10月号を除く)

紹介

 夫婦の晩年、という大きなテーマで、書き綴っている第2作。
 タイトルの「ピアノの音」とは、庄野さんの奥さんが習っているピアノの音のことでしょう。この習い始めのいきさつは「貝がらと海の音」にもかいてありますが、本篇にも一寸だけあります。その部分だけ抜粋すると、

 妻は、近所の仲良しの小学生の有美ちゃんが習いに行っている木谷先生のところへ二年前から週に一回、おけいこに行くようになった。そのときは四年生であった有美ちゃんのお母さんが木谷先生に話してくれたのであった。バイエルのおけいこが始まった。
 いま南足柄にいる長女が中学のころ、ピアノのおけいこに行かせた。妻自身は学校時代にヴァイオリンを習ったことはあるが、ピアノを習うのは今度がはじめてであった。年を取ってから始めたピアノだが、幸い先生が根気よく親切に教えてくれるので、週に一回、三十分のこのおけいこが楽しみになった。今ではピアノは、妻の晩年の大きな楽しみになっている。(後略)

 奥さんは、非常によくおさらいをするようです。毎日、午前中に一回、午後に一回、夕食後に一回、日に三回、それぞれ一時間近くおさらいをすることにしているそうです。その甲斐あって、本篇では、ブルグミューラーとル・クッペを弾いています。

 ここで注記:日本のピアノ教育はドイツ風が主流です。練習曲の流れは、バイエル、ツェルニー、バッハと行きます。ツェルニーは機械的な練習を重んじ、技術を磨くと云う点では有用ですが、音楽として見た場合面白いものは全くない、と言い切ってよいほど詰まりません。一方、フランス流があります。これは、バイエルの換わりにメトードローズ、ツェルニー100番の換わりに「ピアノのABC」をひくというやり方です。「ピアノのABC」の作者がル・クッペです。ル・クッペは、エチュードにかかわらず音楽として楽しいです。ブルグミューラーもそう。フランスに帰化したドイツ人だそうですが、その曲集は練習曲でありながら、音楽としても素敵です。大人が趣味としてやるピアノにツェルニーはばかげています。先生が楽しめて練習できるブルグミューラーとル・クッペを選択したというのは、そういう背景があるのだろうと思います。ちなみに大人が趣味としてやるピアノに練習曲はいらないという考え方もあります。でも作者の妻は、運指を正確に覚えたいという理由で「ピアノのABC」を選んでいます。

 奥さんのピアノに対応して、作者は、ハーモニカを吹くようになります。そこのいきさつを一寸引用します。

 「故郷」の歌のこと。ピアノのおけいこの夏休みが終わった。いつも三十分のおけいこの終わりに、先生と一緒に歌をうたって、けいこの緊張をほぐしてもらう。今月、木谷先生からいただいた楽譜は、「兎追いしかの山」で始まる「故郷」。夜、妻が歌う。
(中略)
 次の日。夜、ピアノのおさらいが終わった妻は、居間でざぶとんを枕に寝こんでいる私のところへ、「故郷」の楽譜のコピーしたものとハーモニカを持って来る。このハーモニカは、去年のクリスマスに妻が私に贈ってくれたもの。貰った当座はよく吹いていた。ミサヲちゃんがフーちゃんと春夫を連れて来たとき、「一曲、子供らに聞かせてやってください」というものだから、そのころ、木谷先生のピアノのおけいこで妻が歌っていた「冬の夜」を吹いて聞かせたら、みんなで拍手をしたということもある。
 ひところ練習をしてレパートリーがふえたけれども、また吹かなくなり、ハーモニカは書斎の本棚の前に置いたきりになっていた。そのハーモニカを久しぶりに妻が持って来て、机の上に置いた。仕方がないから私はそのハーモニカを取って、「故郷」を吹いてみた。妻はよろこび、「『旅愁』よりもいい」という。「ふけゆく秋の夜」で始まる「旅愁」は、私のレパートリーの一つで、気に入っている曲であった。
 次は、こちらのハーモニカに合せて妻が「故郷」をおしまいまで歌った。
 次の晩も、妻は、ピアノのおさらいを終わると、ハーモニカの箱を持って来て、居間の机の上に置く。ハーモニカに合わせて「故郷」を歌う。一番から三番まで歌う。次の日もハーモニカを持って来る。で、一日の終わりにハーモニカに合せて「故郷」を歌うのがきまりになってしまった。

 作者の吹く曲は唱歌や歌曲に限定されています。「故郷」、「旅愁」の他に「里の秋」、帝塚山学院の「学院校歌」、「紅葉」、「赤蜻蛉」、「早春賦」、「アニー・ローリー」など。そこで、作者は、「故郷」や「紅葉」を作曲した岡野貞一に思いを馳せます。

 この奥さんのピアノの練習と、作者が吹く唱歌や童謡の話が全体をつなぐ柱になっていますが、その他の小さなエピソードは盛沢山です。私(T)が好きなのは、長女なつ子さんからの手紙。どれも素敵でユーモアがあって、さすが作家の娘、という所です。

 本書の帯に「生きる喜び」と書いてあります。庄野さんは、日本の私小説の伝統の中にいる人かもしれませんが、戦前の古典的な私小説とは完全に一線を画しています。悲惨な話はなく、自然も人とのつながりも穏やかで、経済的に全体が向上した現代日本においては、健康や周囲との関係に問題がなければ、穏やかであることの幸せが小説のテーマになることは、当然の帰結になります。「貝がらと海の音」以降の諸作は、どれも私(T)にはかけがえのない作品群なのですが、小説としてのまとまりが一番いいのが本作だと思います。

 なお、全く個人的なことですが、本書に収められていた愛読者カードを贈ったら、庄野潤三さんからお礼状をいただきました。とても幸せな気分になったことを覚えております。

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