おもちゃ屋

書誌事項

おもちゃ屋
庄野潤三著
連作短編小説集
初出

 沢登り  文藝  1973年1月号
 燈油  文藝  1973年4月号
 おんどり  文藝  1973年5月号
 甘えび  文藝  1973年7月号
 くちなわ  文藝  1973年8月号
 ねずみ  文藝  1973年9月号
 泥鰌  文藝  1973年10月号
 うずら  文藝  1973年11月号
 おもちゃ屋  文藝  1973年12月号

出版 河出書房新社 1974年3月 

紹介

「おもちゃ屋」の単行本のあとがきを抜粋します。

『 短編小説の連作は、工夫をこらそうとする作者には、楽しみの多いものであるだろう。あらかじめ見取り図をつくっておいて、一回目を書く。二回目を書く。そのつながりかたにふくらみを持たせることも出来る。
 「文藝」でこの仕事を始める前には、私もいろいろと空想をした。ところが、目下の自分の関心がどういうものに向っているのか、はっきりと気が附いたのは、最初の「沢登り」が雑誌に出て、一月以上たってからであった。
 主題は「危険」である。それも、ささやかな日々の営みにあって、危険であるが故に常に活気とおかしみ、慰めをもたらしてくれるような危険がいい.。
 このようにして私は九つの短編を書いた。作者を助けるために、屡々、危険の役割を分担してくれたおんどりを始めとする、われわれの身近にいる動物への感謝をこめて、「おもちゃ屋」を読者におくりたい。』

 日常の一寸した危険をどう描いているのか、というのがこの作品の肝要です。それぞれの作品について、見て行きます。

「沢登り」
 良二のクラスメートが、ワンダーフォーゲル部の練習で夜間山歩きをしていた時に、崖から足を踏み外して川に落ちる話。この事故(事件?)を聞いた良二は、家でその話をします。この良二の話を中心に習字の話が前半と後半に出てきます。読者は、最初の書き出し(『高校二年の良二が、自分の寝ている部屋の壁にどうして習字の紙を吊るす気になったのか、よく分らない。』)で、サッカー少年の意外な一面に驚きを感じ、その良二の友達の事故の話で更に驚きます。このあまり関係ない二つの話が、最後にきちっと纏まる快感。短編小説の技が切れます。

「燈油」
 燃料屋の末っ子がやった事故。配達に行った先で、プロパンガスのボンベを足の上に落して骨折したという話。その顛末を一寸自慢げに井村の妻にするところ。大変なことが大変じゃあないように聞えるおかしみ。

「おんどり」
 和子の住んでいる黍坂の借家の大家さんの家で飼っているおんどり。このおんどりが突然、和子の膝をつつきます。それで、気の立ったおんどりを避けるために、高台のお稲荷さんのところに遊びに行きます。そこに登場するセールスマン。おんどりにやられて、ほうほうの体で逃げ出します。逃げ出したセールスマンがやってきたのが和子のいる場所。そこで早速幼児向けの教材のセールスを始めます。おんどりの猛々しさと、セールスマンのめげないところが妙におかしさを感じます。

「甘えび」
 井村家のゴミ箱をあさる猫の話。小柄なきれいな猫と井村家との攻防が妙におかしみを感じさせます。真鰯を七輪で焼いていた妻が目を離した隙に猫に取られて、落語みたいだ、といって和子に笑われる話。それから3年ほどやってきてはゴミをあさり続けている猫を、明夫と妻とで挟み撃ちにしようとして失敗します。さらに爆竹で驚かして、退散させようとしますが失敗します。庄野さんは、この猫退治作戦をユーモラスにのんびりと書きます。そして、甘えびの落ち。しかし、そこですぱっと終らせません。残った読後感は一寸した気味悪さ。

「くちなわ」
 黍坂の和子の家である3軒続きの借家では、大家さんの竹藪の隣にある八百屋さんの家には蛇が出るが、此方の二軒では出ない筈が、真ん中の家にも遂に出た、というお話です。真ん中の家は、家でお父さんが電気部品を作っていたコーキちゃんの所でしたが、団地に引っ越してしばらく空家になっていた所に、大工さんの一家が越して来ました。その家に出るのです。でも蛇より家ですね。蛇は気味が悪いけれども、特別に悪さをするわけではない。居心地の良い家がもっといいです。

「ねずみ」
 なずみかゴキブリか知らないけれども、台所の引き出しの昆布をかじる害獣退治を試みる妻。お話は衛生的ではなくて、考えてみればそれなりに深刻な話だけれども、彼も、妻も、そんなに深刻にならないです。庄野さんは当事者でありながら、割りと突き離した語り口で話をしています。そこが面白い所です。

「泥鰌」
 泥鰌と子供の事故という二つの直接関係ない話を、剃刀を仲介役にして繋げる手腕を読むお話です。泥鰌を貰った和子が、こういう小さい泥鰌はかみそりのような包丁で料理するのですか、と魚屋の娘さんに尋ねた、という話を聞いて、彼は、一月ほど前の正夫が剃刀で自分の頭を切った話を思い出します。血は沢山出ましたが、大した怪我ではなく、貰った泥鰌も柳川になることなく、金魚鉢で生きています。最後の清々しさ。

「うずら」
 子供達をぶどうを買いにつれて行く和子と大工の奥さん。その時子供の起すトラブルを客観的に描きます。けんか、転んでの怪我。エトセトラ。子供の起すトラブルってそんなものだ、という感じがします。でも、それに付き合うお母さん達は大変です。子供は泥んこで、誰かが泣いているか、ぐずぐず言っているし、愚連隊のようにのろのろ歩くのですから。

「おもちゃ屋」
 最後の作品は、人間のさりげない悪意、無意識な悪意を書いた作品です。二つのおもちゃ屋さんのお客さんに対する扱いはどちらも感心できたものではありません。それを作者は、文章の力だけで、卑しげに描いてみせます。

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