丘の明り
書誌事項
丘の明り
庄野潤三著
短編小説集
1967年12月第一刷発行
筑摩書房発行
初出:
表題 発表誌 発表号 冬枯れ 群像 1965年1月号 行きずり 文學界 1965年3月号 まわり道 群像 1966年6月号 つれあい 新潮 1965年1月号 秋風と二人の男 群像 1965年11月号 石垣いちご 文學界 1963年11月号 曠野 群像 1964年7月号 蒼天 新潮 1964年6月号 山高帽子 文藝 1967年1月号 卵 朝日新聞日曜版 1967年3月 丘の明り 展望 1967年7月号
紹介
1963年秋から1967年夏に発表された短編小説による作品集です。この時期、庄野さんは、彼の代表作として名高い「夕べの雲」を日本経済新聞に連載しているのですが、それと味わいが似ているもの、異なるものが入った作品集です。庄野文学は、「夕べの雲」をもって大きく変わったのではないか、と私は考えているのですが、丘の明りはその前後の作品が含まれるため、庄野文学の幅を味わえるのではないかと思っています。尚、本作品集には、庄野さんの代表的短編の一つとして知られる、「秋風と二人の男」や「卵」が含まれます。
「冬枯れ」、「行きずり」、「まわり道」は、スケッチです。
「冬枯れ」は、私の妻が駅でかかわった、どこか頼りげのない若い女性の話と、そこから思い出せる過去の光景。山の斜面に寝そべっている若者と女性、そして、ある寒い晩に一人で入った蕎麦屋での光景。作者の中で繋がった3つの光景。この3つの全く無関係の光景を結びつけることにより、連歌のような変化の面白さを紡ぎ出しています。「行きずり」も「冬枯れ」と同じような味わいです。タイトル通り、作者が行きずりに出会った光景を繋いでいきます。「冬枯れ」が女性を主に見ているのに対し、「行きずり」は男性のいる光景です。「まわり道」は電車の中のスケッチ。夫婦者と小さい男の子を連れた母親の会話、あるいは女子高校生の会話を、傍観者たる作者が拾い上げています。
このような、何でもない断片を取り上げて、それを冷静で精緻な作家の目で紡いで行くというやり方は、その後の『聞き書き作品』へ繋がるものとして興味が持てます。
「つれあい」、と「秋風と二人の男」は細部の光景描写と心理描写のバランスの見事さを楽しむべきでしょう。特に「秋風と二人の男」は、主人公の蓬田が友人の芝原と酒を飲むだけの話ですが、小道具の描写と使い方の見事さが、作品の味わいを深めています。
「秋風と二人の男」で用いられている小道具は、巻き寿司、上着、歯そして神社への参拝です。最初に細君が作る巻き寿司の作り方が事細かに描写されます。これが実に美味しそうです。蓬田は芝原にこれを食べさせたいと思い、持って出掛けるのですが、これが実に自然です。蓬田は、待ち合わせで上着を着てこなかったことを思い悩みます。夏の盛りが過ぎ、夜はそれなりに涼しくなる時期です。芝原は、奥さんを亡くしていますが、上着をきちんと着て来ます。蓬田は、上着のあるなしに、芝原と自分との違いを思います。歯の話題、神社への参拝への話題を含め、この作品は情景のスケッチと、それに対する蓬田の抑制された感想からなるのですが、作品全体から感じられるものは、老いを迎える心境で一貫しています。
「石垣いちご」、「曠野」、「蒼天」は、戦争をはさんだ、作者の青春の日々です。時代順には、「曠野」、「石垣いちご」、「蒼天」です。
「曠野」は、九州帝大文学部で東洋史を学んでいた庄野さんが、卒業論文に備えて、渤海の都であった東京城の遺跡や鏡泊湖などを訪ねた旅に基づいて書かれた作品です。ここでも庄野さんの視点は等身大です。そうでありながら、戦争中の若者の持つ不安と、中国大陸の広大さが感じられます。
「石垣いちご」は、1944年1月、学徒動員で海軍に召集された庄野さんが、その12月に清水市の砲台に隊長として勤務していた長兄の鴎一氏を訪ねたことを題材に書いた作品です。戦争が終ってかなり時間が経ってから、作者はこの砲台跡を再訪します。もう長兄は亡く、あるのは思い出のみ。二つの時間と空間を重ね合せて、その思い出を辿ります。
「蒼天」は、「静物」の描かれた背景と背景を同じにする作品です。新婚時代のクリスマスの日の朝、細君が自殺未遂を引き起こす。それは、家族のもろさを感じずにはいられない出来事です。今、大阪を訪ね、当時住んでいた家の近くを訪ねた蓬田の回想は、その事件の前後を行きつ戻りつしながら、過去の重みを感じています。描写が非常に美しい作品です。内容は初期の庄野文学の終焉を示すものと言えると思います。
「山高帽子」は、亡父の山高帽子を持って、気ままな一人旅に出た「彼」の印象記。汽車と船を乗り継いで四国に渡ります。四国は彼の母親の古里であり、子どものころはよく海水浴などに行った所です。学校の臨海学校もありました。再訪して景色をみると、子供時代の思い出が蘇ります。父の山高帽子への愛着と子供時代の思い出は同じベースにあります。
「卵」は、「夕べの雲」の男の子兄弟の成長を描いた作品。明夫と良二の兄弟の役割分担が明らかになってきて、後年の「明夫と良二」に至る一寸横暴な兄と、その被害を受けながらも飄々としている弟の形が示されています。
「丘の明り」は、この作品の表題作。表題作として「丘の明り」を選んだのが、庄野さんの当時の興味を示している様です。日常生活の一寸した会話をきっかけに、童話や民話の世界に入って行く、という作品をこのころいくつか書かれているのですが、本篇ではそれが、アメリカの民話「口曲がりの一家」。ここの一家は、皆口が曲がっている。今大学に行っている末っ子のジョンだけが口が曲がっていない。休みで大学からジョンが戻っているとき、夜、ランプの火を消そうとすると、他の家族は(口が曲がっているので)うまく消すことができない。しかし、ジョンは消せる。これを見た父親は「さすがに大学というところは大したもんだな」と感心する。そういう話です。これに対して、庄野さんは、「われわれのしていることも、たいがいこれと似たり寄ったりかも知れない」と思います。そして、その実例として、「春休みにうらの崖のところで何か光るものがあって、みんなで見に行っただろう。あの時のことを言ってくれ」と3人の子供たちに言い、その答えの食い違いを楽しんでみせます。
過去から現在までの長い時の流れがこの作品集にはあります。そして、これらの最後に行きつく境地は、家庭の脆さや危さではなく、安定した家の中から見える外界のおかしみかも知れないという気がいたします。
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