庭の山の木

書誌事項

庭の山の木
庄野潤三著
随筆集
1973年5月31日第一刷発行
冬樹社、0095-10178-5190
初出:1953年から1973年各雑誌、新聞等

紹介

 1970年から73年に掛けて書かれた随筆・短文に、それまでの単行本に収録されなかった文章を含めた合計70編からなる随筆集です。それまで出版された2冊の随筆集に収められなかった古い文章が全体の半分ぐらいを占めていますが、若手作家時代、庄野潤三という作家が、どのような仕事をしてきたか、という意味で、興味深い文章が沢山あります。

 例えば、ルポルタージュ的文章があります。『ラインダンスの娘たち』は、松竹歌劇団の「夏の踊り」でラインダンスを踊る踊り子たちを取材して、週刊サンケイに掲載した文章で、あくまでも庄野さんの文章ですが、今の庄野さんの雰囲気とかなり違っていて面白いです。メーデーを取材した『水色のネッカチーフ』や、テレビのプロ野球中継の現場を取材した『三人のディレクター』、内職を斡旋してくれる授産所を取材した『年末の授産所』という文章もあります。全て昭和30年代前半の文章。庄野潤三30代の作品です。この頃の庄野さんの文章は、後年の、自分の経験をしっかり見つめながら、必要な言葉を精選して、一歩引いたところで書くというスタイルよりも、現場の熱気をそのままストレートに文章に表しているようです。

 『仙人峠から三陸海岸へ』は、「旅」に掲載された紀行文です。庄野さんの紀行文と言えば、『ガンビア滞在記』、『ガンビアの春』、『陽気なクラウン・オフィス・ロウ』などがありますが、これらの長編紀行文が、庄野さんの行動と密着した形で書かれているのに対して、昭和35年11月号に掲載されたこの文は、庄野さんはあくまでも観察者です。その意味では、庄野さんの個性が強く出たというよりは、普通の紀行文になっています。

 古い随筆でも、自分の家族や伊東先生などを題材に書いた作品は、比較的現在の作風に近い感じがします。1970年前後以降の作品は、庄野スタイルが完全に確立されたあとの作品といって良いと思います。

 表題作の『庭の山の木』は、庄野さんの庭に生えている、ムラサキシキブ、ヤブニッケイ、自然薯、カンゾウ、ムラサキツユクサなどのことを取り上げた随筆。このムラサキシキブは、一昨年、下の男の子が近くの崖から取って来て、侘助の隣に植えたもの。最初の2年間は元気がなく、取ってきた子供に、「これは本当にムラサキシキブか」といったり、「葉のかたちが少し違うんじゃないか」といってはいじめていたが、今年は、しっかりと葉が茂り、白い小さな花の蕾らしいものも出てきた、というお話。今年の秋には実がなるかもしれない、と結んでいます。

 このムラサキシキブの木は、今では、枝に鳥のえさとなる脂身を入れるかごがついていることは、読者の人々にとっては常識でしょう。ところで、最近作『うさぎのミミリー』を読んでいたら、山紅葉の幹のそばに、「庭の山の木」と呼んでいる木が生えているそうです。この木の由来は、「子供が小さいころに近くの山から掘って来て、庭に植えたのが根づいた。あまり大きくならない木で名前が分らないから、「庭の山の木」と呼ぶようになったもの」とあります。今、庄野家の庭に生えている「庭の山の木」は、随筆『庭の山の木』に書かれた木とは違うようです。

 70年前後に書かれた随筆の中で面白いのは、『頬白の声』、『春の花・うぐいす』、『この夏のこと』、『庭のむかご』など、自分のまわりの風景や自然を題材にしたものだと思います。その中で、一寸風変わりなのは、『このひと月-酒中日記』です。ここでは、大久保の飲み屋でお酒を飲む話が出て来ます。店名は出ていませんが、勿論「くろがね」です。庄野さんと「くろがね」の長い付き合いが良く分ります。

 第二部は、書評や感想など。昭和31年に書かれた『私の代表作』は、庄野さんの作品集が「愛撫」、「プールサイド小景」、「ザボンの花」しか出ていない時期にかかれたので、デビューして間もない時期の庄野さんの自作への感想が分って興味深いです。その時、彼が代表作に上げているのは、当時唯一の長編小説である「ザボンの花」と「愛撫」です。「愛撫」の中では「喪服」が良いといっています。

 第二部の最後は『家にあった本・田園』というタイトルで、佐々木邦の作品を取り上げ、「もっと読めば良かったと、この年になって悔やまれる」と書いています。私はこのサイトで、佐々木邦、源氏鶏太、庄野潤三の三作家をメインに取り上げているのですが、庄野さんと佐々木邦が繋がっているのを知り、何となく愉快な気分です。

庄野潤三の部屋に戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送