紺野機業場

書誌事項

紺野機業場
庄野潤三著
小説
1969年「群像」9月号発表。単行本は1969年11月発行
講談社
初出:同上

紹介

 庄野潤三は、デビュー以来ほとんどぶれがない作家です。自分の目で見たこと、自分の経験したことを誇張なく書くことを徹底しています。取材を元に書く、いわゆる「聴き書き小説」(と私は呼んでいます)でもそうです。それでも「流れ藻」では、意識して取材者・観察者である庄野さんの姿を隠していますが、この「紺野機業場」では、取材者の目・聴き手の目を前面に出して、語り手と聴き手との関係を読み手に見せながら話を進めて行きます。この取材者の行動をもっと前面に出して書かれたのが「水の都」や「早春」ですが、「紺野機業場」では未だ聴き手は、語り手との関係の中で現れて来ます。

 書き出しは、『ふとしたことから私は、北陸地方の海ばたの、さびしい河口の町で小さな織物工場を経営している紺野友次という人と知り合った。それからもう四年になる。』です。それまで一度も行ったことのなかった北陸地方に、いつも決まった、東京から米原、米原から小松、小松から安宅とイノシシのように同じ道を通います。紺野機業場は町の真中を通っている幹線道路から一つ裏手に入った所に建っている鋸屋根の工場で、語り手の紺野さんは工場と棟続きの母屋の硝子戸の向うの囲炉裏のある部屋に座っています。紺野氏は、痛風のためにあまり働くことの出来なくなっており、お母さんが工場を切り盛りしています。

 安宅といえば勧進帳ですが、この作品には弁慶も義経も出てこず、ひたすら、紺野氏とその家族の生活と消息が語られます。語り手はほとんどが紺野氏。小さな田舎町の町議だの連合町内会の会長だのを勤めたような有力者で、それなりに係る人が多いので、話の中に登場する人物は多いのですが、その話には一貫性もなければ、時系列にも整理されていません。紺野氏のごつごつした語り口で話されるままに(勿論それなりに整理はされていると思いますが)、物語は進められています。

 本来お喋りは、一貫しているものでもなければ、整然としているものでもありません。あちらこちらに話がとび、何となく進んでいくというのが普通です。庄野さんはこのお喋りの脱線を最大限利用して話を進行させています。脱線すれば、本来の話の筋とは異なった話になってしまいますが、それがあるおかげで、全体として内容の富んだふっくらとした話になるのです。この脱線を庄野さんを意識的に牽いている節があります。

 例えば第10章は、子供の話から始まります。そこでも紺野氏の話は大いに広がります。まず、長男の中学受験から高校受験、早稲田の高等学院へ行って、在学中に兵隊にとられたという話をします。そして、次男は中学を四修で卒業して早稲田に行き、兄と同級生なった(ただし兄は政経、弟は露文)話をします。次は一転して、自分の父親が大工だった話になり、織物工場を建て、自分も親の仕事を見ていたということを言います。次いで、自分が学校を卒業するとき、優等生だというので、賞状と一緒に「新選書簡文集」を貰い、家が貧乏なので他に本を買ってもらえなかったので、この「新選書簡文集」を読みふけり、自分も文士になりたいと思ったけれども、叔父に止められて、親父のやっている仕事を続けたという話になります。そこで、子供は親に似て皆文学好き、という話になり、次男の露文科進学へ繋がります。しかし、次男が在学していたのは戦争中のことですから、東京へ子供を訪ねる時の苦労話になり、安宅も空襲を受けるのではないかと考えて(本当は受けなかったのですが)、荷物を疎開した、という話になります。そこから戦争時代には満州の会社の株を沢山やったという話に転じます。

 このような脱線、脱線の連続の話の中に、紺野氏の自分史が自ずと見えてくる構造になっています。即ち、紺野氏の語り口は、そのまま彼の人間関係の在り方であり、生き方であります。血縁、婚戚、知人、雇用人といった身近な人を世話し、あるいは世話される緊密な人間関係があり、地域の気候、信仰、行事、小さな事件、地理、歴史、文化、商売等がこれらの人間関係に絡みあって大きな一本の木となっています。

 この紺野氏の考えと経験は、北陸の一小都市独特の部分もあるのでしょうが、大正期から昭和40年代に至る範囲では日本のあちこちで当たり前のように行われて来た風俗・習慣と繋がります。名も知れぬ庶民の生活ですが、個人個人の「紺野機業場」に描かれている生活が、ある時期の日本人を明らかに反映しています。庄野さんの描こうとしていたのが、多分その日本人の根っこだと思います。紺野氏の話に対する共感と反面覗ける冷めた目のバランス。これがこの作品のふくらみを支えています。 

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