貝がらと海の音

書誌事項

「貝がらと海の音」
庄野潤三 作
1996年4月20日発行
275ページ
新潮社刊 1748円(税別)
ISBN4-10-310609-3 C0093
発表: 新潮45 1995年1月号〜12月号

紹介

 夫婦の晩年、という大きなテーマで、書き綴った第1作。庄野さんは、ずうっと自分の身の回りの出来事を小説にしてきた作家ですが、晩年になって、その対象も表現もより洗練されてきます。現在の境地は、自分の身の回りの出来事を虚飾を避けて、自分の楽しかったこと、美しかったこと、印象に残ったことを書きたい、ということなのだろうと思います。ですから、ある時期より「小説」とは銘打っていますが、「随筆」とも「日記」ともつかない作品が紡ぎ出されます。そして、視点の中心が自分の家になります。

 「貝がらと海の音」は、自分と妻とその家を中心に据えて書いた作品です。勿論、そこにはいろいろなものが来ます。四十雀や雉鳩のような鳥類。娘のなつ子さんや孫娘のフーちゃんからの手紙。美しいばらを丹精して育てている清水さんのような近所の人々。勿論、結婚して独立した息子や娘とその家族。その交流が微笑ましいです。

 タイトルの「貝がらと海の音」は、次のエピソードからつけられたものです。(原文は縦書き)

『 この夏のこと。
 三日ばかり涼しい日が続いた或る朝、妻は清水さんから分けてもらった貝がらを、フーちゃんと春夫に、好きなのを二つずつ取らせたときのことを思い出して話した。貝がらを切子の硝子の花生けの水の中に沈めて玄関に置いたその日にミサヲちゃんに連れられて二人は来たのである。
 「八月に入って、これから本当の夏になるというときでした。フーちゃんも春夫も大よろこびしたの」
 いつも地主さんから借りている畑で丹精した薔薇を届けてくださる近所の清水さんのところへ妻が倉敷から届いた白桃を持って行ったその日のことであった。清水さんは団地の四階に住んでいる。玄関の下駄箱の上にいつものお花の代わりにきれいな貝がらがいくつか水盤に沈めてあった。
 「まあ、きれいな貝がら」
 といったら、清水さんは結婚した二人のお子さんがまだ小さかったころ、夏に三浦海岸ヘ行ったときに浜辺で拾った貝がらですという。
 「泳げないので私と圭子の二人で拾っていたんです。それを旅館へ持って帰って、中の肉を取り出して、洗って干しておいたの。家に持って帰ってからも、また洗って干して」
 その貝がらを沢山、ビニールのさげ袋に入れて分けてくれた。
 「ビー玉もあるんですよ」
 清水さんはいろんな色のついたビー玉を持って来た。
 「これは、おばあさんのお店で買ったの」
 そのビー玉もビニールのさげ袋に入れて分けてくれた。その日、清水さんから頂いたのは、貝がらとビー玉だけではない。ほかにお国の伊予から届いた温室みかんを一袋下さった。清水さんはそういう方なのである。こちらが何か届け物をすると、いろんなものを下さる。そうしないと気が済まない人なのだ。
 家に帰って、妻は清水さんがしていたように、切子の硝子の花生けに水を張った中に貝がらを沈めて、玄関に置いた。この硝子の花生けはチェコ製の品で、宝塚を見に行くときいつも一緒に行く阪田寛夫がむかし「土の器」という作品で芥川賞を受賞したときに、記念に贈ってくれた。
 ビー玉の方は、何かの折に清水さんが下さったガラスの花瓶に入れた。その日の午後、ミサヲちゃんとフーちゃんと春夫が来た。岡山の白桃を頂いたから取りに来てと妻がミサヲちゃんに電話をかけたら、来てくれた。
 「チェコの花生けに水を張って貝がらを入れたときは、うれしくて、うれしくて。清水さんのしていた通りにしたかったから」
 と妻はいう。
 フーちゃんたちがもうそろそろ着くというころになって、空が急に暗くなって来た。ミサヲちゃんたちは電車で生田まで来て、そこからバスに乗る。いつも、そうする。バスを下りてから坂道を上り、むかしは山の雑木林であった面影の残っている小道を通って来る。
 もし夕立に会ったら三人とも濡れると思って、妻は傘を二本持って迎えに行った。バスから降りたミサヲちゃんたちが美容院の前の坂道を上がって来るのに会った。雨が少し落ちて来たが、持って行った傘を渡して、おかげで濡れずに家まで来た。
 玄関へ入るなり、フーちゃんは花生けのなかの貝がらを見つけて、喜んで覗き込んだ。春夫も覗き込んだ。二人とも夢中になって見ている。
 「それじゃあね、フーちゃんと春夫に二つ上げる。好きなのを二つずつ、取りなさい」
 ビー玉も一つずつ上げることにして、ビー玉を入れてある花瓶の中から二人に取らせた。
 フーちゃんと春夫は、いつものように先ず洗面所に行って手を洗った。フーちゃんが貝がらを大事そうに持って台所へ来た。お茶の用意をしている妻にフーちゃんが、
 「貝がらを耳に当てると、海の音が聞こえるの」
 といった。
 「よく知ってるね。こんちゃんも子供のころ、貝がらを耳に当てて海の音を聞いたよ」
 フーちゃんは、誰からそんなことを聞いたのだろう?友達と話しているうちに聞いたのだろうか。ミサヲちゃんに聞いたのだろうか。妻が「夢みる夢子ちゃん」とフーちゃんのことをいったのは、もう何年か前のことだろう。まだ、「山の下」の大家さんの借家にいたころ、お母さんに連れられて「山の上」に来たら、よく書斎の私の仕事机の下に入り込んで「アフリカ」といっていたような子だから、もともとそんな話が好きなのだろう。
 「フーちゃんたちが来た日からずっと貝がらは玄関の花生けの中に沈めてありました。夏でお花が無いときだから、お花の代りに飾っておいたんです。いいものを清水さんに頂いて、うれしくて、うれしくて」
 或る日、妻はその貝がらを引っ込めて、ビー玉と一緒に洗って、笊に入れて井戸の上にのせて干した。よく干してから、箱に入れて仕舞った。
 「貝がらを仕舞ったら、夏が終わったという気がして、さびしかった」』

 本文で約3ページ分。省略しながら写そうかとも思ったのですが、敢えて全文写しました。何故ならば、申し上げるまでもないのですが、このエピソードには、庄野さんの文章の特徴がよく表れているからです。
 まず、会話文と地の文の融合。会話文は非常に印象的な発言に留め、残りは地の文にして、発言を効果的に示すというのが庄野さんのよく使う手法なのですが、このエピソードは典型的な例だと思います。
 第二に、書いてある事柄がいちいち具体的でわかり易い。庄野さんは、心情をこまごまと書くよりも人の具体的な行動を書くことによって、登場人物の人となりを表現するのが見事です。この文の中で、「妻」も「清水さん」も「フーちゃん」も実に素敵です。生気を感じます。

 様々なエピソードをつないで行って、お話を作るという形式は、ここ10年来の庄野さんのスタイルです。「貝がらと海の音」は、その後の作品と比較して、花や鳥のエピソードよりも人との交流のエピソードが多い様です。楽しい一冊です。

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