文学交遊録

書誌事項

文学交遊録
庄野潤三著
初 出 「新潮」(新潮社)1994年1月〜1994年12月
出 版 1995年3月30日 新潮社 
定 価 1650円(消費税抜き)
ISBN4-10-310608-5 C1193

紹介 

『まだいが栗頭の学校の生徒であったころから何らかのかたちで私に文学の刺激を与えてくれた師友のことを書いてみたい』との作者の冒頭の言葉が、この作品の一番の要約でしょう。
庄野さんの経歴は大阪生れ、大阪外語学校から九州大学法文学部卒業。大阪の中学校の先生をして、その後朝日放送に入り、ラジオの制作に従事。その後作家専業になりました。文学史的には「第3の新人」のグループに分類されるわけですが、書く内容は、自分が作品の中心にいて、自分の目(もちろんこれは作者の分身である主人公も含みます)を通して見えるものを書くという点で、独自性があります。「文学交遊録」を読むと、、その作風の秘密の一辺が解き明かされるような気がして、これらの交流が庄野さんの作品のどう影響を与えたかと想像すると、楽しくなります。

取り上げられるのは、まず大阪外語学校時代の先生たちです。
吉本正秋先生と上田畊甫先生。吉本先生は、最初の授業の時、第一時大戦の時、英国兵士達に愛唱された「ティペラリー」を歌ってみせてくれます。そのときのポーズは、『教壇の上で生徒のほうを向いて、先ずおもむろに右の腕を横に持って来て、チョッキのわきのところに右手の親指をかけ、胸をそらして、恰もこれから演説を始める人のようにして「アップ トゥ マイティー ランドン」と歌い出された』なのだそうです。この吉本先生、奥さんを呼ぶとき、『おい、おい、山の神』と呼ぶなどというエピソードも一寸可笑しいです。
上田先生に習った英国文学の作品の話も沢山出てきます。チャールズ・ラムの随筆、ガーディナー、ルーカス、ミルン、リンドなどの作品もよく読んだ様です。庄野さんの作品は、日本の私小説の伝統に即しながらも、昭和初期までのそれらとは確実に一線を画しているのは、このような英国随筆の素養があるためかもしれません。

第2章は、大阪外語時代の外国人教師グレン・ショウさん、ヘンリー・ジョーンズさんのお話。第3章は、庄野さんの文学的な師、詩人の伊東静雄についてです。伊東は日本の近代詩を語る上で欠かせない人です。この章には、庄野さんの大学時代の試験休みの帰省で、伊東先生と庄野さんとが、淀川縁をハイキングした話が載っています。このとき出来たのが、伊東の詩「淀の河辺」。文学作品の成立の場に立ち会えた喜びが溢れています。

第4章は、大学時代と文学の修業時代の話。島尾敏雄と林富士馬との交友。食糧難の時代、いかにビールを確保したかなど、戦争中の学生生活がヴィヴィッドに描かれていて面白いです。そして、伊東静雄をキーにして、林富士馬、桜岡孝治、喜志武彦らとの交流が始まります。その刺激の中から、庄野さんの処女作「雪・ほたる」が生まれます。そして、林富士馬との縁で佐藤春夫と会うようになります(第6章)。この時案内した、林富士馬は、佐藤春夫に「庄野君は、紅茶を飲みながらシュウクリームを食べるような、そんな小説を書きたいんだそうです」という。庄野さんは、これについて、『どういうつもりで「紅茶を飲みながらシュウクリームを食べる」などといったのだろうか。五十年たった今、振返ってみると、それは「のびやかな、読む人を楽しくさせるような小説を書きたい」というぐらいの意味ではなかったかと思われる。』と書いています。最近の庄野さんの作品の境地がまさにこれだとTは合点しました。

庄野さんの文学修業時代、大阪の作家では藤澤恒夫や長沖一との交流があります(第7章)。藤澤とは文学的なつながりの他に、作者が今宮中学の先生だったころ、作者が部長をしていた野球部が選抜の代表になった時のエピソードなどが書かれています。

第8章からは、文学修業時代以降の交友のお話が主になります。三好達治、阪田寛夫のニ詩人との交友から始まって、安岡章太郎、吉行淳之介、近藤啓太郎といった第三の新人仲間、ついで、福原麟太郎、十和田操、坂西志保といった年長者の話。ここで特記すべきは、坂西志保との交流でしょう。庄野さんは、昭和32年から33年にかけて、米国オハイオ州ガンビアのケニオンカレッジで、ロックフェラーの給費留学生として1年間過ごすわけですが、このとき坂西志保の推薦で出掛けることになります。坂西さんの勧めにしたがって、夫人と二人で留学します。そのことについて、庄野さんは「そうして、よかった。向うで実際に村の人に交って生活してみて、坂西さんのいったことがいかに正しかったかが分った。もし私ひとりで行っていたら『ガンビア滞在記』に描かれたような、よき隣人との付き合いは生れなかっただろう。従って、三十三年八月に帰国して、その秋から書き始め、翌三十四年三月に中央公論社から本となった『ガンビア滞在記』も無かっただろう。」と書き、更に、「そして、その後の私の仕事のことを考えると、もし私が『ガンビア滞在記』を書いていなかったとすれば、私の新しい出発点となった「静物」も、その後の「夕べの雲」も書けなかっただろう」と言っています。

最後の2章では、井伏鱒ニ、河上徹太郎、中山義秀、小沼丹、そして、庄野さんの実兄、児童文学者の庄野英二の思い出が書かれます。庄野さんは、元々井伏鱒ニがお好きだったようです。井伏の作品はそこはこと無きおかしみが特徴なわけですけれども、庄野さんもそこを愛したようです。庄野さんの作品にもそこはかとないおかしみが漂っているものが多いのですが、井伏との違いは、井伏が根本がシニカルな笑いであるのに対し、庄野さんのはもっと明るいおかしみのところにあるように、Tは思います。

この作品は第1章にチャールス・ラムの「エリア随筆」の話が出てきますが、最後もこの引用で終わります。
『「文学交友録」の終わりの章を書いた私にも、エリアと同じように、
 「うたうことはまだ沢山ある」
 の嘆きが残る。取り上げなくてはいけない人を落しているのではないだろうか。
 だが、もう終わりにすべきときである。これでお別れすることにしよう。』

蛇足ですが、面白い、興味のあるエピソードがいっぱい詰まっています。楽しめます。

庄野潤三の部屋に戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送