庄野邸公開日(2019年9月23日)

 庄野潤三さんは、1961年4月川崎市多摩区三田の山の上に自宅を新築し、亡くなる2009年9月までこのお宅に住んで、数多くの作品を書いてきました。その40年以上の生活については、その街並みの変遷とともに、「夕べの雲」、「雉子の羽」、「絵合せ」、「明夫と良二」、「野鴨」、「世をへだてて」、「鉛筆印のトレーナー」、「さくらんぼジャム」、そして「貝がらと海の音」に始まる晩年シリーズなどの作品で克明に描かれてきました。その意味でこの「山の上の家」は、まさに庄野潤三という作家のホームグランドでありました。

 庄野潤三が亡くなった後、奥様の千壽子夫人がひとりで暮らしていましたが(と言いながら、隣は御長男の龍也さんの家です)、千壽子夫人も亡くなられ、空き家になられたことを機に、この作家の家を読者の方に公開したいと御長女の今村夏子さん、御長男の庄野龍也さんが考えられ、年に2日だけ公開することにしたものです。その第三回目が2019年9月23日に実施されました。

 第三回目の展示は、第一回目第二回目よりも更に凝ったものになりました(例えば、庄野さんが夏子さんに送られたはがきなど)。今回はこの夏葉社のサイトとこのサイトだけの案内だったわけですが、たくさんのお客様が引きも切らせずいらして、往年の大作家の生活をしのびました。台風の影響で風が強い日でしたが、晴れ男「庄野潤三」のおかげで晴天で、秋の素晴らしい一日となりました。

 この日もまた、夏子さん、龍也さん、龍也さんの奥様の敦子さん、そして龍也さんの御長女の恵子さん、庄野さんの晩年の作品の装丁を手掛けた画家の河田ヒロさん、庄野文学研究者で日本大学の上坪裕介先生、夏葉社の島田潤一郎さんらがいらしていて、龍也隊長の元いろいろなご説明をして頂きました。特に夏子さんには、庄野先生に関するいろいろなお話をしていただき、大変参考になりました。庄野文学の愛好者にとっても、大変参考になったのではないかと思います。

 「庄野潤三の部屋」のサイトに関しては、当日オフ会を庄野先生が行きつけだった生田駅前の中華料理店「味良(みよし)」で行いました。掲示板でよく書き込みされてくださる「あき子さん」、「ボウセ童子さん」、「あんさん」、「ナオさん」など9人の方に参加いただき、参加者9名で庄野先生が決まって食べていたという「タンメン」を食べ、庄野文学の素晴らしさについて語り合いました。また、オフ会には参加できませんでしたが、私に声をかけて下さったサイトをご覧の方もたくさんいらして、管理人としてはとても嬉しかったです。

 以下、当日撮影した写真を今回は部屋別に載せようと思います。

  
庄野潤三宅まで
長沢浄水場から、庄野家に向けて登るZ坂です。生田駅から三田団地の上まで、だらだら坂の上りですが、ここで更に一段の上りとなります。
庄野潤三が、「山の上」と言ったとおり、本当に山の上です。
Z坂の中腹から三田団地方面を写しています。中央の鬱蒼とした森は、三田第一公園の緑です。
   
庄野家外観・庭
庄野家の入り口です。Z坂を登り切った一番上からちょっと下がったところにあります。1961年に庄野潤三がここに家を買ったときは、長沢浄水場はは下にあったそうですが、それ以外のものは何もなかったと言います。
長沢浄水場も今と比べると全然規模が小さく、庄野家のすぐ下が浄水場だっただけだそうです。龍也さんは、フェンスの隙間から浄水場に入り込み、そこをずっと遊び場にしていたそうです。
目の前の家が潤三の「山の上の」の家。隣に長男龍也さんの住む家、更に隣には、龍也さんの長女の恵子ちゃんが住む家があります。恵子ちゃんも今は二児の母親です。
玄関わきの壁に貼ってあったご挨拶です。公開はあと三回、前半の三回を全て来ることができて、個人的には非常に満足しております。
庭から見た潤三の家。典型的な日本家屋でこの日は全ての戸や窓が開け放たれておりました。手前の人が写っているのが六畳間。水槽の脇の部屋が茶の間です。 庭から茶の間と台所を見たところ。台所はお客さんがいっぱいです。
庭の鳥の餌箱です。何代目なのでしょうか。庄野さんはこういう餌場に餌を置いて、日々訪れる鳥たちを見て楽しんでいました。 庄野薫三の家の間取り図です。以下はそれぞれの部屋に飾られていたもので、今回初めて撮影した写真を載せます。
   
玄関・書斎
書斎から玄関を見る。百合の花が活けてありました。また壁には傘と並んでステッキが。 書斎のピアノです。晩年は奥様が習われていました。ピアノの上にはハンチングや潤三の父、庄野貞一の写真が飾られています。ピアノの前に立てかけてあるのは、奥様自製の楽譜です。中にはコピーが張られていて、表面には可愛らしい絵が描かれています。
ピアノの上にあった、庄野潤三80歳のお祝い会の写真です。2001年7月、大久保「くろがね」にて。庄野一家13人プラス阪田寛夫さん、藤野邦夫さんの合計15人が出席。
後ろにかけてある「おじいちゃん八十歳おめでとう会」の軸はフーちゃんが書いたもの
書斎にあった火鉢と鉄瓶。
書斎の机の上。執筆ノート辞書類などのほか、フーちゃんからの「Thank you letter」も置いてありました。宝塚に連れて行って貰ったときのお礼状でした。 同じく書斎の執筆机。実際の執筆の時は、もっときれいに使用していたのだろうと思います。今回はノートやら文房具やらが所狭しと置いてありました。
   
お茶の間(居間)
居間の仏壇の上の写真。潤三の大きな写真の下に千壽子夫人、次男和也さんの写真が飾ってあります。 ピアノの上の写真「おじいちゃん八十歳おめでとう会」で使った、フーちゃんが書いた掛け軸です。おおらかな字で素敵ですね。
「夕べの雲」は庄野潤三の代表作であり、本人も一番好んでいた作品だったそうです。作品が発表されたのは、1964年ですが、その5年後、こんな書を書いたのですね。  
   
六畳の間
潤三が愛用していたジャケットとモーニング。 生原稿。編集者による「朱」が入っています。
   
台所
潤三愛飲のビールとお酒。
潤三は若い頃から大の酒好きで、練馬に住んでいたころは深夜まで何軒もの飲み屋を作家仲間と飲み歩いていたそうです。
生田に移ってからは終電までには帰るようになったそうですが、家では毎日ビールを飲んでいました。
潤三は晩年この5種類のビールを毎日順番に飲んでいたそうですが、その順番は決して間違わなかったそうです。
夏子さんの話によれば「同じ曜日に同じ種類を飲むなら分かるが、順番ですから、よく覚えているな、と思いました。」とのことです。もちろんビールだけで終わるはずもなく、その後はウィスキーや日本酒「初孫」も飲まれました。
倒れられて、家で介護生活を送っていた時も、ビールを脱脂綿に付けて口に含ませると、「ニコッ」とほほ笑んだそうです。
「かき混ぜ」を拵えたすし桶。台所には、「夕べの雲」に出てくる「落雷」の跡もまだしっかり残っています。
   
図書室/妻の部屋
今回は、奥の「図書室」の机に、潤三から長女の夏子さんあてに書かれたはがきがたくさん置かれていました。潤三は筆まめだったのですが、ことに夏子さんあての手紙を書くのがお好きだったようです。
お礼状であったり、日々の報告であったり、内容は様々ですが、作家の書かれている日常の原型がここにあるようでした。
なお、龍也さんによれば、「私は父から手紙をもらった記憶がない」とのことでした。夏子さんが特別だったのでしょうね。
「帝塚山学院物語」帝塚山学院創立100年を記念して作られました。帝塚山学院出身者で二人の芥川賞作家が生まれていますが、その二人が親友同士だった。阪田寛夫と庄野潤三です。その額が、「図書室」窓の上に飾られていました。
今回、個人的には最大の収穫。庄野潤三の処女作「雪・ほたる」が発表された同人誌「まほろば」です。中はすっかりボロボロですが、ようやく「雪・ほたる」の現物を読むことができました。
この作品は「まほろば」で発表されただけで、出版されたことはなく、読者にとっては「幻」の作品でした。
ウサギのミミリーとミミリーの写真。可愛らしいですね。ちなみに本の装丁は、この日もボランティアでお手伝いにいらしていた、河田ヒロさん
   
おまけ
生田駅北口にある中華料理店「味良」のタンメン。潤三の好物でした。  

先頭に戻る

小説の町並み目次に戻る

庄野潤三の部屋TOPに戻る 


SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送