珍太郎日記

さわりの紹介

 この間乃公が家の門の前で遊んでいたら学生が二人通りかかって、その一人が、
「おい、君、これが上村の小僧だよ」
 と乃公を顎でしゃくり指しながらもう一人に教えた。すると相手は、
「争われないものだなあ。親爺そっくりの皮肉な顔をしているぜ」
 と感心したように言って寄って来た。
「おい、小僧さん,親爺にね、稀には病気になって欠勤するようにと言って置いておくれよ」
 と頼んで行った。お父さんが乃公のことを家の小僧と言うものだから、見知りもしない書生っぽうまでが乃公を小僧呼ばわりする。失敬な奴だ。

 大僧の学校には試験が済んでから先生のところへ運動に来る学生がある。乃公は運動というのは散歩や駈けっこのことばかりだと思っていたら、及第を頼むことだと聞いて驚いた。本人単独でやって来るのもあるが、運動上手な友達を何人も名代に差し向ける横着ものもある。ずっと上級で細君のある学生になると、細君を先生の細君に泣きつかせて、宜しくお執成を頼み込むのもあるそうだ。姉さん達の同級生にもこの運動で九死に一生を得るのが随分あるらしいと言った。乃公の仲間にも思い切って出来の悪い奴があるけれども、それでも先生のところへ運動に行ったという話は一向聞かない。

 今客間に来ているのはその運動だ。
「成績のことなら会議の済むまでは一切君達にお目にかからないと言って置いたから成績の話じゃなかろうね」
 とお父さんは念を押している。学生は恐縮して黙って畏まっている。一体学生というものは仲間から離れると甚だ弱いものだ。大勢一緒にいて責任の帰着点の明白でない場合は忽ち奇声を発して先生を冷やかしたりするが、唯一人先生と差し向いに坐って一言一句が皆自分の責任になると感じる時は温厚篤実の極みを尽し、礼儀を遠慮と穿き違える。お茶を出しても滅多に飲まない。お菓子は綿細工でもことが足りる。

「何うだね。学校は面白いかね?」
 とお父さんは相手の見境なく面白さ加減を聞きたがる。
「学科が多いのでナカナカ苦しいです」
 と学生は既に話頭を用件の方へ向けた。
「多いったって知れたものじゃないか。一週間二十五、六時間だろう?」
 とお父さんは人のことだと思って高を括っている。自分は一週二十時間足らずの授業を苦しいと言っている癖に。
「二十五時間ですが、語学が二つもあるのですからナカナカ苦しいです。それに私は一学期に神経衰弱をやって大分休みましたから、殊に英語が苦しいです」
 と学生が頻りに苦しがった。

「神経衰弱か、成程顔色が悪いね」
 とお父さんは自分も多少神経衰弱なのでやや同情するように言った。
「それで一層のこと今度は追試験にしようと思ったのですが、友達がそれは損だからと言って勧めたので、つい受けてしまったのです」
 とこの学生は試験を受けたのを友達の所為にしている。
「受けて宜かったじゃないか」
「ところがお話にならないほど不出来なのです。前から不眠症に罹っていましたので,先生のは半分書いた丈けで、それも悉皆は合ってはいないようなんです。一体何点ぐらいあるんですか、私のは?」
 と学生は点数のことで来たのでない筈なのにもう悉皆点数の話にお父さんを引っ張り込んでいる。掛引は先生より一段上だ。

作品を読む

 「珍太郎日記」は、大正9年1月号〜12月号まで、「続珍太郎日記」は翌大正10年1月〜12月号まで「主婦の友」に連載されました。佐々木邦の処女作は、明治42年に発表された「いたずら小僧日記」ですが、この作品は佐々木邦の創作であったにもかかわらず、「アンノウマン」氏の翻訳という形で世に出されました。佐々木邦の創作として出された最初の長編小説がこの「珍太郎日記」です。

 「珍太郎日記」は、その名の通り、上村珍太郎君という小学校六年生(連載中に中学生になる)の日記です。子供の日記で社会を風刺するというやり方は、「いたずら小僧日記」ですでに実施しておりましたが、自分の作品として発表することになったためか、あるいはそれだけ年をとったせいか、「いたずら小僧日記」とは相当味わいの異なる作品に仕上がっています。

 「いたずら小僧日記」の方が、はるかに過激でアナーキーです。佐々木邦は、昭和初期の流行作家時代、良識あるユーモアを表看板にして作品を発表して来たわけですが、その本質は「いたずら小僧日記」に見られる、辛辣で容赦ない笑いだったと思います。その容赦ない見方は、「いたずら小僧日記」においては、自分のいたずらに対するお仕置きに対してもあり、大人の偽善に対する笑いと共に、子供のいたずらに対する厳しさも包含し、全体として、相対的な見方の作品になっております。

 それに対して「珍太郎日記」の珍太郎は、勿論いたずらはするものの、太郎のそれに比べれば全然おとなしいものです。その替わり,大人社会の見方は、辛らつで、ある意味では評論家的ともいえると思います。

 珍太郎一家は大学の英語の先生であるお父さん、お母さん、女学校を卒業した長姉を頭にした3人の姉、それに珍太郎の6人家族です。大学の先生のお父さんのところに色々なお客さんが訪ねて来ます。珍太郎の部屋は客間の隣なので、客とお父さんやお母さんとの会話が筒抜けです。その会話の様子を聞きながら、世の中のおかしさを笑って見せます。その意味で、この作品は佐々木邦の「吾輩は猫である」です。ただし、名なしの猫が語るのでは無く、小学生の珍太郎が語る違いです。

 当時、佐々木邦は、高校の英語教師でしたから、作品に登場する大人達の内、珍太郎のお父さんは自分がモデルであり、お父さんのところに訪ねてくるお客さん達は、邦の家を訪ねる同僚達だったのでしょう。それらをモデルにして、大人社会の面白さ、矛盾を厳しく描いています。

 尚、1975年5/19〜6/11、12回に渡ってNHK少年ドラマシリーズの一篇として、NHK名古屋放送局でテレビドラマ化されています。

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