苦心の学友

さわりの紹介

「内藤君」
「はい」
「ここへ来て例題をやる」
「はあ」
 と正三君は元来優秀な上に家庭教師に見て貰っているから安心なものだ。直ぐに教壇ヘ進み寄って黒板へ向かった。しかしその時、皆クスクス笑い出した。襟首のところから短冊ほどの紙片が背中へ釣る下がっていて、墨痕鮮かに「花岡の家来」と書いてある。
「何だ?これは」
 と先生が引っ張り取った時、
「さあ」
 と正三君は初めて気がついて頭を掻いた。皆ドッと笑う。
「横田」
「はい」
「お前だろう?この悪戯は」
「はあ」
 と横田生は机の上に平身低頭した。正直だからでない。橋本先生の怖いことを知っているのだ。匿してお手数をかけると罪が重くなる。
「君は、数学をやらずに、こんなことをしているのか?」
「申訳ありません」
「これは今そこで書いたのか?家から書いて来たのか?」
「家から書いて参りました」
「大分念が入っているな」
「・・・・・・・・」
「これから気をつけなさい。勉強しないと苦しくなるばかりだぜ」
「はあ」
「内藤君、もう宜しい。席へ帰って」
 と先生はこの際級担任として一同に注意を与える必要を認めた。
「諸君。『花岡の家来』云々と言って新入生の内藤君にからかうものが諸君の中に大勢あるようです。花岡家の家来というのがどうしておかしいのですか?内藤君に限らず、苟くも士族なら誰でも旧藩主即ち先祖代々の殿様があるに定まっている。現に私は毛利様の家来です。教頭の市来先生は島津さんの家来です。私達は家来たることは恥と思いません。諸君の中にはそれぞれ何様かの家来が大勢いるに相違ない。家来でないものは平民だけです。平民は家来以下です。昔は物の数にも入らなかった。然るにこの頃はどうも平民がのさばっていけない。王政維新は誰がやったと思いますか?主に毛利様や島津様の家来達が骨を折っている。平民は一向与っていません。唯恩典を受けているだけです。して見れば家来は家来でないものの恩人に当る。家来だからと言って馬鹿にする理由はちっともない。云々」
 と橋本先生は正三君の立場に同情する余り少々言い過ぎた。家来でないものが百姓をしたり商売をしたりしなかったら、家来は皆干乾しになっている。王政維新どころでない。訓諭が終った時、
「先生」
と堀口生が手を挙げた。
「何ですか?」
「僕は反対です」
「これは驚いた」
「先生、士族の方が平民より豪いんですか?」
「いや、そんなことはない」
「それでも先生は今そうおっしゃいました」
「それは昔の話です。今日は士族も平民もない。皆同じ待遇を受けている」
「いいえ、花岡君は華族だから大切にされています。僕なんかと違って、少しも叱られません」
「君は乱暴をするからさ」
「先生、華族と士族と平民では一体何れが一番豪いんですか?」
「皆同じことだ。唯個人として豪い人が豪いんだ。そんな下らない理屈を言わないで、その暇に数学を勉強する!」
「先生、それじゃ数学の出来る人が豪いんですか?」
「無論そうさ」
 と先生は自分の鼻を指さして、一同をドッと笑わせながら、
「家来でも平民でも構わない。私の目から見ると数学の出来るものが一番豪いんだ」
「参ったなあ」
 と堀口生は両手で頭をかかえて嘆息した。ナカナカ愛嬌がある。皆は又笑った。
「いいかね?分ったかね?この級には華族も士族も平民もいる。しかし一切平等だ。誰が豪いということはない。地理の先生から見れば地理の出来るものが一番豪い。英語の先生から見れば英語の出来るものが一番豪い。しかしお互にもっと眼界を広くして、もっと大きいところから見なければいけない。日本全体から見ると国家の役に立つ人間が一番豪い。世界全体から見ると人類同胞に貢献するものが一番豪い。いいかね?分ったかね?」

作品を楽しむ

 「苦心の学友」は、昭和2年10月号から昭和4年12月号まで講談社の「少年倶楽部」に連載された少年小説です。中学生を意識して書かれた小説ですが、佐々木邦の最良の面が惜しみなく出されており、佐々木邦の代表作の一つです。最高傑作かもしれません。

 雑誌『少年倶楽部』は、大正3年に創刊された少年雑誌ですが、その最盛期は大正末期から昭和10年にかけてでありました。それは、吉川英治、佐藤紅緑、大佛次郎、山中峯太郎、高垣眸、南洋一郎らの少年小説が多数連載されていた時期であり、これらのいわゆる「面白くてためになる」作品を集められたことが、少年倶楽部を隆盛に導いたものといえそうです。佐々木邦もこの「少年倶楽部」編集部の「面白くてためになる」作品を書いてくれる作家として、白羽の矢がたったもののようです。当時の編集長、加藤謙一の回想「少年倶楽部時代」に拠れば、
 「”天馬侠”、”角兵衛”、”玉杯”。この三本の大柱を立てることができて、少年倶楽部の骨組みがどうやら固まったように見られたが、もう一本大柱が要ることに気がついた。滑稽物語である。
 男の子は勇ましい話を好み、女の子は悲しい物語を好むと大別されるが、滑稽物語だけは男女共に好む。それほど滑稽ものの功徳は大きい。そこで、佐々木邦さんを訪ねて、滑稽小説を書いて欲しいと頼んだところ、『私は諧謔小説は書くが、滑稽小説というものは書きません』と、きつい調子で断られた。(中略)
 『その諧謔小説で結構ですからどうぞ』、と頭をかきながら頼みなおした。はなはだ見識のない頼み方で汗顔至極だが、どうしても先生の作品が欲しい。この素朴な頼み方が、作家ずれのしていない先生にかえって気に入られたようで、それではといって書いてくれたのが”苦心の学友”である」

 因みに、”天馬侠”とは、吉川英治の「神州天馬侠」、”角兵衛”は大佛次郎の「角兵衛獅子」、”玉杯”は、佐藤紅緑の「あゝ玉杯に花うけて」です。どれも日本の児童文学史に燦然と輝く傑作で、昭和初期の小学校高学年から中学生に絶大なる支持と共感を誘った名作です。これらに伍する作品を、ということで邦もかなり力を入れて「苦心の学友」に取り組んだものと思います。

 主人公・内藤正三君の家は、お祖父さんの代まで花岡伯爵家の家来でした(日本の華族制度は、基本的に江戸時代の大名を処遇する制度ですから、花岡家も元々は大名です)。そのため、お家大事の精神は未だに内藤家では生きています。そのため、花岡家から、余り成績のよくない三男・照彦様のご学友に、と正三君を所望されると、両親は一もニもなく了承致します。勿論これは、正三君の出来の良さが認められたことでもあるし、将来の出世への期待もあります。兄の祐助君だけは、正三君が卑屈にならず、男子の意気を失うことを心配しますが、正三君は決意して、伯爵家に住みこみます。

 ご当主の伯爵夫妻は万事開明な人で、正三君にも優しく接してくださいますが、お屋敷には、照彦様の兄や姉、それに子供達の教育の要とも言うべき、極めて厳格で且つ古風な安斎先生をはじめ、家庭教師の先生方も何人もおり、それらの対人関係に、正三君は気を使わずにはいられません。また転校した照彦様の通う私立中学校には、悪童達がいて、「内藤正三位」と綽名をつけられて、何かといじめられます。

 ご学友としての責任を痛感する正三君ではありますが、まだ13歳の子供、子供らしい正義感や好奇心は一杯あります。そのため、照彦様とはしばしば衝突しますし、二人で蜂の巣に悪戯をして、顔中腫れさせたりもします。学校でのトラブルも様々です。そうした中で、正三君は諦めることなく、頭が悪いと決め込んでいる若様に、勉学に対する興味を持たせようと努力をするのです。

 この作品の面白さは、御学友正三君と若様照彦様を対照的にかつユーモラスに描くことによって、華族制度のもつ退廃性・閉鎖性をやんわりと批判するところにあります。佐々木邦は英国風の本当のリベラリストで、社会・風俗に対するあるべき規範をもっていたことは疑いありません。しかし、大人向けの作品に見られる、退廃的なものに対するシニカルな笑いは、本作では完全に影を潜めています。むしろもっと前向きです。そこが、当時の少年達の支持を集めたものと思われます。

 「苦心の学友」は、少年向け諧謔小説の祖でした。それまでの滑稽小説と一線を画した新しいユーモア小説でした。その意味で日本の児童文学史におけるエポックとなる作品であり、佐々木邦としても子供向け作品へと作風をひろげる転機となった作品であります。

 余談ですが、私、子供の頃、ブラック・アートという遊びを教わったことがあります。遊びの詳細は省略しますが、一種のことば遊びです。それが「苦心の学友」に出ています。この遊びの初出はわかりませんが、「苦心の学友」で紹介されたことが、世に広まったきっかけだったのでしょう。

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