花嫁三国一

さわりの紹介

 「奥さん」
 「何でございますか?」
 「伺いますが、富士山の見えるところなら、若い男性と女性が話しをしてさしつかえないという規則がありますか?」
 「さあ」
 「富士山の見えるところなら、おっ開いていますから、そこで話すぶんには公明正大で、なにもはばかることはない、というんです。そういう規則があるでしょうか?」
「この村のことは存じませんが、そんなお話、わっちら韮山では聞いたことはありませんわ。ないようね、そんなことは」
 初音夫人は記憶の中を吟味して、
 「ありませんわ」
 と断定した。
 「ぼくもないと思います。やろうにだまされたんです」
 「どなたに?」
 「恥を申し上げなければわかりません。ぼくのうちの隣に、お鶴さんという娘がいるんです。子どものときからのなじみですから、なんなら、嫁にもらってもいいと思って交際していました。そこへ、柿田の秋山政吉というものが、じゃまにはいってきたんです。ときどきお鶴さんを呼び出して、話ながらのらを歩くんです。ぼくが抗議を申し入れたら、富士山の見えるところなら公明正大だからかまわない、といいました。ぼくはしかたなしに、大目に見ていたんです」
 「そうしたら?」
 「けさわかりましたが、政吉がお鶴さんをもらうことに決まってしまいました」
 「まあまあ、あんた、取られたのね?」
 「はあ。いまさらしかたありませんが、ほんとうにそんな規則はあるものかどうか、念晴らしに先生に伺ってから行動しようと思ってまいりました」
 「チャラッポコよ、そんなこと」
 「ぼくは正直すぎました」
 「そのお鶴さんって人、奇麗な人?」
 「こうなったから、そういうんじゃありませんが、ごくあたりまえです。ただ、政吉にだまされたのがくやしいんです」
 「だまされてくやしいから、仕返しでもなさる気?」
 「はあ。これから行って、ぶっくらわせます」
 と、青年は力強くいって、腕を扼した。
 「それはいけないでしょう。暴力に訴えるなんてことは」
 「みすみすうそをついてだましたんですから」
 「あたしが困りますよ。主人も迷惑しますよ。松井先生のところへ伺って聞いてみたら、そんなことはないとおっしゃったから、とおっしゃるんでしょう?」
 「いや、なにもいわないで、いきなりやります。やろうだって身に覚えがありますから」
 「いけませんよ。まあまあ、冷静に考えてごらんなさい。あたしがあんたなら、この際目をつぶって黙っていますわ」
 「黙っていれば、なおバカだと思われます」
 「いいえ、ならぬかんにんをするんです。そうして、お鶴さんよりももっといいお嫁さんをもらって、ふたりを見返してやるのよ」
 「それはまた問題が違います。うそをついてだました制裁が先です。いろいろとありがとうございました。失礼いたします」
 「まあ、お待ちください」
 と、初音夫人が止めたけれども、青年はあともふり返らずに出ていってしまった。

作品紹介

 「花嫁三国一」は、昭和30年4月号〜31年2月号にかけて「家の光」に連載された長編小説です。佐々木邦は、明治末期に小説家としてデビューして以来、昭和30年代まで作品を発表しつづけますが、「花嫁三国一」はその最晩年の作品です。

 佐々木邦の作風は、彼の英文学の素養に基づいた英国的ユーモアが背景にあり、作品の登場人物は基本的にインテリの中産階級でした。サラリーマンという人種が成立した時代に彼らの生活をユーモアを持って描く、というのが基本線でした。逆に農村を舞台に描いた作品は、少年倶楽部に連載した「村の少年団」や「わんぱく時代」を別にすれば、例外的と申し上げても良いでしょう。しかし、第二次世界大戦中、古里の沼津や山形県の庄内地方に疎開して、農民文化に触れた邦は、戦後、農村を舞台とした作品を発表します。「おばこワルツ」と「花嫁三国一」がそうです。そして、前者が山形県を舞台に描き、後者は、沼津・三島に挟まれた村を舞台にしています。

 主人公は村で農業をやっている吉田孫作君。彼は、隣に住む幼馴染のお鶴さんを嫁に貰う積りでいましたが、彼女に積極的に出ないうちに、政吉君に奪われます。その顛末を相談に行った恩師、松井先生の夫人、初音さんに『お鶴さんよりももっといいお嫁さんをもらって、ふたりを見返してやるのよ』と言われて発奮し、三国一の花嫁を貰うべく、村中の適齢期の美人にアタックします。

 いとこの美津子さんにまず肘鉄を食らい、次いで、吉田君は、村の美人番付に載っている女性をあれこれと思い浮かべ、妙覚寺の娘の鳥居静子さん、こうじ屋のお貞さん、精米屋の峯子さんなどと次々機会を作っては交際します。女性陣は皆社交的で、吉田君の求愛に、みな嬉しそうにしますが、農業においては模範青年である吉田君も、女性心理には疎く、脈がありそうだと思って積極的にアタックすると、相手には婚約者がいたりして、なかなか思うに任せません。

 最終的には、美人番付横綱の静子さんと結ばれることになりますが、そこに至る経過が農村の風俗と人間関係の中で展開していきます。

 作品は、戦前の作品と比較すると自由です。本物のリベラリストで日本の軍国主義には一貫して批判的であった佐々木邦でしたが、「花嫁三国一」を読むと、戦前の作品が自主的か検閲の結果そうなったのか良くわかりませんが、かなり抑制的に書かれていたことがわかります。

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