オペラに行って参りました-2005年(その2)

目次

演奏会形式の演出   2005年03月19日   新日本フィルハーモニー交響楽団第383回定期演奏会、ベートーヴェン「レオノーレ」(1806年版)を聴く
「かなめ」の魅力   2005年03月23日   新国立劇場「コジ・ファン・トゥッテ」を聴く
レパートリー公演の水準   2005年04月14日   新国立劇場「フィガロの結婚」を聴く
B級を楽しむ   2005年04月26日   東京歌劇座、アサクサオペラ「ボッカチオ」を聴く
楽しければ全てよし!?   2005年05月21日   日本オペレッタ協会、オッフェンバック「ラ・ヴィー・パリジェンヌ」を聴く
夫婦愛の裏側に   2005年06月02日   新国立劇場「フィデリオ」を聴く
167年ぶりの再演   2005年06月04日   インターナショナル・フリードリヒ・クーラウ協会「ルル」を聴く
落差の意味   2005年06月27日   新国立劇場「蝶々夫人」を聴く
ロマンチックよりスピード   2005年07月18日   東京オペラプロデュース、マルシュナー「ヴァンパイア」(日本初演)を聴く
演出の力、音楽の力   2005年07月28日   東京二期会オペラ劇場「フィレンツェの悲劇」「ジャンニ・スキッキ」を聴く
名声の威力   2005年08月29日   藤原歌劇団「アドリアーナ・ルクヴルール」を聴く
実力派の競演   2005年09月01日   オペラの華シリーズ第2回「ロシア、フランス・オペラの夕べ」を聴く

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鑑賞日:2005年3月19日
入場料:B席 3000円 3F 3列18番

新日本フィルハーモニー交響楽団 第383回定期演奏会

主催:新日本フィルハーモニー交響楽団/すみだトリフォニーホール

オペラ2幕、字幕付原語(ドイツ語)上演
コンサート・オペラ形式
ベートーヴェン作曲「レオノーレ」(1806年版)(LEONORE)
台本:ヨーゼフ・ゾンライトナー/シュテファン・フォン・ブロイニング

会場 すみだトリフォニーホール 大ホール

指 揮 クリスティアン・アルミンク
管弦楽 新日本フィルハーモニー交響楽団
合 唱 東京オペラシンガーズ
合唱指揮 江上 孝則
演 出 三浦 安浩
装 置 星  健典
照明プラン 鈴木 尚美
舞台監督 幸泉 浩司

出 演

ドン・フェルナンド 塩入 功司
ドン・ピツァロ ハルトムード・ヴェルガー
フロレスタン ヴォルフガング・シュヴァニンガー
レオノーレ マニュエラ・ウール
ロッコ ヨルグ・シモン
マルツェリーナ 三宅 理恵
ヤキーノ 吉田 浩之
囚人1 大槻 孝志
囚人2 細岡 雅哉

感想

演奏会形式の演出-新日本フィルハーモニー交響楽団第383回定期演奏会、ベートーヴェン「レオノーレ」(1806年版)を聴く

 ベートーヴェンは器楽の作曲家であると思います。9曲の交響曲、5曲のピアノ協奏曲、32曲のピアノソナタ、16曲の弦楽四重奏曲はどれも珠玉の作品であり、私にとって非常に大事な作品ですが、声楽曲は「ミサ・ソレムニス」を別にすればたいした作品がない。歌劇「フィデリオ」もベートーヴェンの作品だからそれなりの上演があるわけですが、虚心に音楽のみを聴いたとき、「魔笛」や「魔弾の射手」と比較したら、どうでもいい作品と言わざるを得ません。

 ベートーヴェンも「フィデリオ」がさほどの作品でないと考えていたようで、都合3回の改訂を行っています。現在「フィデリオ」決定版として知られているのが、3度目の改訂版。オリジナルや2度目の改訂版が舞台にかかることは滅多にないようです。今回の「レオノーレ」1906年版は、「フィデリオ」の第2回改訂版ですが、これが日本で演奏されるのは今回初めて。どのようなものか、興味を持って聴いてまいりました。ただし、私は、「フィデリオ」を滅多に聴くことがなく、いまだに実演経験がないので、今回の演奏が普通の「フィデリオ」とどこが違うのか、異同を議論できるほど詳しくないので、その部分は割愛します。序曲が歌劇「フィデリオ」序曲ではなく、序曲「レオノーレ」第3番が演奏されたことは分かりましたが。

 演奏は、素晴らしいものだったと思います。アルミンクの的確なコントロールが非常にバランスのいい演奏になっておりました。しかし、楽しめたか、といえば私には楽しめませんでした。まず、演出がよくない。私は、演奏会形式と割り切って、特別な演出をせずに純粋に音楽のみを聴かせてくれればよいと思うのですが、中途半端に演出するものだから、かえって視点が定まらず見えにくく困りました。

 照明を落とした影を重視した演出でしたが、演奏会形式で、照明を強調されると、妙に落ち着きません。舞台の上に鉄骨でコの字型にやぐらを組んで、そこにロープを張ったり、赤いコーンを置いたりして工事現場か炭鉱を意識しているようですが、あまりしっくりきませんでした。拘束から開放というコンセプトはいいのでしょうが、その単純な二元論的分け方は、それだけで引いてしまうところがあります。フィナーレで、解放軍である合唱団が客席から登場するのですが、その服装が「Leonore」とのプリントのあるTシャツで、赤、白、青のトリコロール(これはもちろんフランス革命を意識)となると、工事現場での拘束と乖離がありすぎて、違和感を強く持ちました。

 とにかく、この演出とベートーヴェン作品の持つ本質的重厚さが重なると、音楽が非常に重苦しく感じます。目を閉じて、演奏だけを虚心に聴いていれば、それほど極端な演奏ではなく、中庸なバランス・コントロールの演奏になっているのですが、舞台を見ながら聴いていると、これこそ「大ベートーヴェン先生の音楽」のように押し付けがましく聴こえてしまうのが不思議でした。

 アルミンクの音楽作りは、全体の流れとして、フィナーレに焦点をあて、そこに音楽的クライマックスを徐々に作り上げていこうとするもの。台詞がほとんどカットされているので、音楽的な流れが途切れないのもよかったと思います。相当に抑制した指揮で、オーケストラの微妙なニュアンスを表に出そうという意識を感じました。また、演奏会形式のオペラは、ピットでのバランスで演奏するとオーケストラの音が強くなりすぎるきらいがありますが、その抑制された表現ゆえに歌手とのバランスも抜群で、とてもよいものであると思いました。

 歌手陣は総じて良好。レオノーレ役のウールがまずいい。典型的なスピントでパンと出る声がよかったです。全体によかったのですが、特に、「フィデリオ」現行版ではカットされた、第9番マルツェリーナとの二重唱、第1幕8番の大アリア、2幕のフロレスタンとの再会の二重唱、このあたりは、どれも表現も適切で、その切なさがはっきりと認められる立派なものでした。ブラバです。

 フロレスタン役のシュヴァニンガーも悪くない。声にあまり特徴のある方ではないようですが、その朴訥とした語り口は、烈女レオノーレとのバランスで見ると、しっくりときます。再会の二重唱からフィナーレに至る第二幕のクライマックスは、ピッチャーのウールにキャッチャーのシュヴァニンガーという感じになっており、よいコンビネーションでした。

 悪役ピツァロを演じたヴェルガーは流石の存在感。先日の新国立劇場「ルル」、シゴルヒ役でも感心しましたが、今回の存在感も相当なもの。復讐のアリアは、負のエネルギーの強さを感じました。ロッコ役のシモンは、割と線の細い歌唱ですが、その細さが、ピツァロに抑圧される部下のイメージを的確に表していたのではないかと思います。吉田浩之のヤキーノ。こういう役を歌うときの吉田は上手いです。

 もう一人賞賛すべきなのは、マルツェリーナ役の三宅理恵。まだ東京音大の大学院生とのことですが、十分な力量を示しました。リリコ・レジェーロのいかにも娘役、という声質もさることながら、マルツェリーナのフィデリオに対する一途な愛情と、抜擢された若手歌手の役に対する一途な努力がお互いに共鳴しあって、抜群の歌唱になったものと思います。冒頭のアリアもよかったですが、やはり聴き所は第9番レオノーレとの二重唱。スピント・ソプラノとレジェーロ・ソプラノとの絡み合いがよかったです。

 東京オペラシンガーズの合唱は言うまでもないけれども素晴らしい。劇の流れに沿った丁寧でありながら迫力のある歌唱は、大変結構でした。

 とにかく音楽だけを聴いていれば、一期一会の演奏だったのだろうと思います。それだけに中途半端な演出で感興を削がれたのがとても残念です。

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鑑賞日:2005年3月23日
入場料:ランク7 5670円 4F L3列5番

主催:新国立劇場

オペラ2幕、字幕付原語(イタリア語)上演
モーツァルト作曲「コジ・ファン・トゥッテ」Così fan tutte)
台本:ロレンツォ・ダ・ポンテ

会場 新国立劇場・オペラ劇場

指 揮 ダン・エッティンガー
管弦楽 東京交響楽団
合 唱 新国立劇場合唱団
合唱指揮 三澤 洋史
演 出 コルネリア・レプシュレーガー
美術・衣裳 ダヴィデ・ピッツィゴーニ
照 明 磯野 睦
舞台監督 大澤 裕

出 演

フィオルディリージ ヴェロニク・ジャンス
ドラベッラ ナンシー・ファビオラ・エッレラ
デスピーナ 中嶋 彰子
フェルランド グレゴリー・トゥレイ
グリエルモ ルドルフ・ローゼン
ドン・アルフォンソ ベルント・ヴァイクル

感 想

「かなめ」の魅力-新国立劇場「コジ・ファン・トゥッテ」を聴く

 特に意図したわけではないのですが、今年に入って、モーツァルトの四大オペラを全て聴いてしまいました。特に3月は「魔笛」(二期会)、ドン・ジョヴァンニ(新国立劇場オペラ研修所)、そして今回の「コジ」と集中しています。めぐり合わせと言うことなのでしょうが、面白いものです。1月のフィガロを含めた4回の鑑賞の中で、トータルとして一番評価できるのが今回の「コジ」ではないでしょうか。私にとって理想の「コジ」ではなかったのですが、十分満足行く演奏でした。

 ダン・エッティンガーの指揮がまずいい。自らチェンバロを演奏しながらの指揮でしたが、きりっと引き締まったシャープな指揮ぶりで好感が持てました。東京交響楽団もノーミスと言うわけには行かなかったようですが、なかなかの高水準。変にロマンティックにならずに、古典派の様式感がすっきりと現れていてこれまた結構。決して速い演奏ではなかったのですが、しっかりと抑制されたプロポーショナルな演奏でよかったと思います。

 申し上げるまでもなく、「コジ・ファン・トゥッテ」は極めて人工的な作品ですが、その部分にあまり肩入れしすぎても、反対に無視しても決してよい結果が得られないような気がします。自然体で人工的なところもそうでない部分も素直に示す(現実にはそれをやるのはとても大変なことなのでしょうが)のが、よい結果を得るためには重要ではないのか、という気が、聴いていて強くいたしました。

 一方演出はなるほど、こうきたかという程度のもの、妹と姉のテーマカラーの利用、人物から舞台装置に至る各種の対称性など、「コジ」の持つシンメトリックな部分を素直に出してきました。一方で、舞台の上で着替えを見せてみたり、一寸エッチなくすぐりもあって、それなりに楽しめるものですが、一寸中途半端な印象。もし、伝統のコジを意識するのであれば、もっと保守的な演出でもよかったのではないかと思いますし、「コジ」の持つ抽象性を強調するのであれば、また別の行き方もあるのではないでしょうか。

 歌唱もおおむね良好。特にソロで歌うときはみな上手でした。まずよかったのはヴェロニク・ジャンスのフィオルティリージ。彼女はバロックのスペシャリストとして登場した方ですが、そういう出自のせいか、歌にあくがなくすっきりしていて、それでいながら要所要所を締める。上品で上手い。「岩のように動かず」も、2幕の大アリアもすっきりと、しかしながら要所要所を響かせながら歌ってみせて、大変結構なものでした。

 ドラベッラのナンシー・ファビオラ・エッレラも悪くない。感情の起伏が激しくて軽い性格のドラベッラという役柄を歌うとなれば、一寸ドスの利いたエッレラはちょうどいいのかもしれません。ドラベッラは、フィオルティリージのような大きなアリアは与えられていないわけですが、第11曲のドラマティックなアリアも第2幕のうきうきしたアリアもつぼの押さえた歌唱で結構でした。

 中嶋彰子は言わずもがな。流石の実力です。登場のアリアも「女も15になれば」も、変装したとき(医者と公証人)の歌唱もそれだけ聴く分には大変結構でした。

 しかしながら、エッティンガーの音楽の作りとヴェロニク・ジャンスの歌のバランスを聴くにつけ、エッレラや中嶋の歌は、この演奏の中では落ち着かない感じがいたしました。エッティンガーの音楽は、簡単に申し上げるならば、オーセンティック演奏でモーツァルトの多様性が示された後のモーツァルト、でした。虚飾を廃した軽さの美学。ジャンスは、バロックの歌唱の素養から、オーセンティック演奏の意識を出しながら歌唱したと思います。それに対してエッレラや中嶋はもっとロマンティックなアプローチでした。この差は、アリアを聴いている分にはそれほど気にならないのですが、重唱になるとそのスタイルの違いゆえか、声が今ひとつ混じらない。ソリストのあくの強さが、アンサンブル・オペラとしての性格を弱めたのではないかという気が致しました。

 男声陣は、女声陣と比べれば、個性の目立たない歌唱でした。結果としてこちらはOK。フェランドが、当初クレジットされていたジョン・健・ヌッツオからグレゴリー・トゥレイに変わったわけですが、フェランド役としては、ヌッツォよりもトゥレイのほうがこのオペラに似合っているように思いました。グリエルモ役のルゾルフ・ローゼンも達者な歌。どちらも合格でしょう。

 そして、もっと素晴らしかったのが、ドン・アルフォンソ役のベルント・ヴァイクル。彼は、昨年の新国「ファルスタッフ」でも聴きましたが、歌唱の素敵なことで申し上げるならば、ドン・アルフォンソのほうがずっと似合っていると思いました。いるだけでおかしいというバッソ・ブッフォではありませんが、その存在感のある重厚な歌いっぷりは、大変素晴らしいものでした。今回の「コジ」において、歌手の要となっていたのがベルント・ヴァイクルでした。その魅力が、今回の観劇の感興を更に押し上げたことに違いないように思います。

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鑑賞日:2005年4月14日
入場料:ランク7 5670円 4F 1列40番

主催:新国立劇場

オペラ4幕、字幕付原語(イタリア語)上演
モーツァルト作曲「フィガロの結婚」Le Nozze di Figaro)
台本:ロレンツォ・ダ・ポンテ

会場 新国立劇場・オペラ劇場

指 揮 平井 秀明
管弦楽 東京フィルハーモニー交響楽団
合 唱 新国立劇場合唱団
合唱指揮 三澤 洋史
演 出 アンドレアス・ホモキ
美 術 フランク・フィリップ・シュレスマン
衣 裳 メヒトヒルト・ザイペル
照 明 フランク・エヴァン
舞台監督 佐藤 公紀

出 演

アルマヴィーヴァ伯爵 ヴォルフガング・ブレンデル
伯爵夫人 エミリー・マギー
フィガロ マウリツィオ・ムラーロ
スザンナ 松原 有奈
ケルビーノ ミシェル・ブリート
マルチェリーナ 竹本 節子
バルトロ 妻屋 秀和
バジリオ 大野 光彦
ドン・クルツィオ 中原 雅彦
アントーニオ 晴 雅彦
バルバリーナ 中村 恵理
二人の娘 三浦 志保・小林 昌代

感 想

レパートリー公演の水準-新国立劇場「フィガロの結婚」を聴く

 一昨年9月に初めてこの「フィガロ」の舞台を見たとき、相当に刺激的でしたが、再演を見るとき楽しめるかどうかという点に関して相当疑問に思いました。今回、その疑問の再演を見たのですが、明らかにプレミエ時よりも舞台がこなれており、素直に演劇空間に入っていくことができました。オリジナルのホモキの舞台が「フィガロの結婚」の本質を突いていたということでしょうし、もうひとつ申し上げるならば、演出補の田尾下哲の力量と言うことなのでしょう。更に付け加えれば、バジリオ:大野光彦、アントニオ:晴雅彦、バルバリーナ:中村恵理、花娘の二人は、プレミエ時と同一キャストであり、彼ら脇役群は皆初演時よりも演技が磨かれており、ずっと楽しめる舞台に仕上がっていたと思います。

 音楽も本年の方が上。プレミエのときはウルフ・シルマーは柔らかいウィーン風の音楽でこの舞台をみせていましたが、平井秀明はよりドラマティックな表現でこの舞台を彩りました。どちらかと言えばゆっくりとした演奏で、表情豊かな音楽作りをしていました。私は「フィガロの結婚」に関しては、本来シルマーが一昨年やったような音楽作りのほうを好ましく感じるのですが、この舞台に対しては、平井のアプローチのほうがより自然であると思います。本当のことを言えば、モーツァルトの音楽とホモキの演出を結ぶ演奏は、平井の持って行き方とは更に違うような気がするのですが、それでも十分説得力がありました。また、歌手も多くは、ドラマティックな表現に秀でている人が多く、その点からもドラマティックなアプローチがよかったようです。音楽と舞台との自然な融合という点でプレミエよりも本年が上回っていました。

 要するに、レパートリー公演として練り上げられていた演奏と言うことなのでしょう。音楽表現のフレームとしては十分素晴らしいと申し上げてよいと思いますし、名舞台と申し上げてよいのでしょう。

 歌手陣はプレミエ時と反対で、男高女低。もっと申し上げるのであれば、総じて日本人の歌手がよく、外人は今ひとつでした。

 特によかったのは、松原有奈のスザンナ。ノーミスではなかったのですが、どこをとっても水準以上の出来。スザンナがこのオペラの中心であることは申し上げるまでもないのですが、その軸としての役割を十分果たしていたと思います。声に張りがあり、アンサンブルでの絡み合いもイニシアチブをとっているようでした。色気もあり、演技の切れもよい。第4幕のアリアはまさにブラヴァものでした。今日本人ソプラノでスザンナ役を歌える方はたくさんいらして、この声質の層が一番厚く、この役に関しては「外人歌手お呼びでない」感じがいたします。

 次いで、バルトロ役の妻屋秀和がよい。演技の面白さで、前回のシャオリャン・リーを上回っています。歌の上手さでは定評のあるバスですが、こんなにコミカルな演技が出来る歌手の方とは知りませんでした。第1幕のアリアと、マルチェリーナとスザンナと鞘当でのコミカルな演技は大いに愉快でした。

 竹本節子のマルチェリーナもよい。ものすごい厚塗りのお化粧で本来の顔立ちが消えていましたが、歌は上々。演技もコミカルな部分がよく、本上演を盛り上げるのに一役も二役も買っていたと申し上げるべきでしょう。慣習とはいえ、アリアがカットされていたのが残念と思えるほどでした。

 それ以外の脇役陣も総じて良好。プレミエ時も吹っ切れた演技で見ごたえのあった晴雅彦は今回も前回にも増した激しい演技でアントニオを好演。バルバリーナの中村恵理もまた前回と同様によい歌と演技で大変結構でした。

 以上の日本人歌手のがんばりと比較すると、外人歌手はいまいちでした。その中でましだったのがムラーロのフィガロ。私はいつも申し上げているように、バス歌手がフィガロを歌うことがあまり好きではありません。従って、ムラーロのフィガロにもあまり好感を持ったわけではないのですが、しっかりした歌唱技術や、音楽の流れへの溶け込み方、を見るうちに彼は評価すべきだろうと思うようになりました。特に後半がよかったです。それでも「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」などは、一寸重たい歌になっており、ケルビーノをからかう軽さはあまり明確ではなかったように感じました。

 ブレンデルも流石の実力。若干年齢を感じさせる歌で、大満足と言うわけには行かなかったのですが、低音部の安定感がしっかりしていてアンサンブルに入るとしっかりと下支えをして、十二分に役割を果たしていました。第3幕のアリアもなかなか結構でした。

 女性歌手二人は評価できません。伯爵夫人を歌ったエミリー・マギー。なかなか気品のある声で雰囲気の出た方でしたが、それが歌唱技術に結びつかないのが残念です。高音部はずり上げと絶叫が目立ちましたし、低音に下りるところは十分に下がりきれなくて不安定さをみせていました。登場のアリア「愛の神様みそなわせ」も、「美しい思い出はどこに」もともに中途半端な歌唱で感興を削ぎました。無理な歌唱をしないアンサンブルでは、持ち前の美声で加わってなかなかの魅力も感じられたのですが、本当に美しい「手紙の二重唱」などでは、最初はがんばってスザンナに合わせていくのですが、途中から腰砕けになってしまい、感心できませんでした。

 ケルビーノ役のブリート。どうしようもない。今回のキャストはプレミエ時と同等かそれ以上の方が集まっていたのですが、ケルビーノだけは一昨年のツィトコーワの方がずっと良いと思います。ブリートは、ケルビーノに欠かせない溌剌とした若さを感じさせられないのですね。「自分で自分がわからない」も「恋とはどんなものかしら」も初々しさを感じさせない歌唱で、ケルビーノの無邪気さがでてこないのが残念でした。

 以上、アンサンブルの美しさといい、音楽の集中とこなれ方といい、プレミエの演奏よりもずっと練られたものになっていたのですから、伯爵夫人とケルビーノにもう少し人が得られていれば、もっと感動的な舞台になったように思います。

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鑑賞日:2005年04月26日
入場料:A席5500円 I列15番

主催:(財)としま未来文化財団/東京テアター/東京歌劇座

オペレッタ2幕、日本語上演
スッペ作曲「ボッカチオ」Boccaccio)
台本:R・ジュネ/F・ツェル
今回の公演台本:清島利典
訳詞:小林愛雄/榊原徹

会場 東京芸術劇場小ホール1

指 揮 榊原  徹
演 出 清島 利典
ステージング・衣裳 藤代 暁子
照 明 高山 晴彦
舞台監督 友井玄男/松本仁志

出 演

ジョヴァンニ・ボッカチオ
(田谷力三、実は蕎麦屋の出前持ちのマリコ)
関 真理子
ランベルトウッチョ(雑貨屋、床屋、桶屋を兼ねる)
(清水金太郎、実は照明係のチョーさん)
細岡 雅哉
ピエトロ(パレルモの王子)
(戸山英二郎、実は指揮者の篠原正雄)
布施 雅也
フィアメッタ(ランベルトウッチョの養女)
(安藤文子、実はコーラスガール志望のウメ)
薗田真木子
ベルネラ(ランベルトウッチョの娘)
(原信子、実は切符もぎりのマツ)
北條 聖子
ベアトリーチェ(ランベルトウッチョの妻)
(井上起久子、実はカフェーの女中のタケ)
蓮沼 律子
ヴァイオリニスト(実は浅草「金龍館」の売り子ツルちゃん) 三木季生子
ピアニスト(実は浅草「金龍館」の売り子カメちゃん) 浜川 潮

感 想

B級を楽しむ-東京歌劇座、アサクサオペラ「ボッカチオ」を聴く

 オペレッタはオペラと比べると聴く機会が少ないようです。「こうもり」と「メリー・ウィドウ」は何度も聴いておりますが、それ以外の作品になると、聴いた経験のある作品でも2回が最大です。スッペのオペレッタは全曲を通して聴いた経験は録音を含めてなく、今回が初めてとなります。だから細かいところはよく知らないのですが、今回の公演、オリジナルとは随分変えてきているようです。合唱もないし、ロッテリンギ、イザベッラ、スカルツァといった重要な役どころが省略されて全てランベルトウッチョに一本化するなど。でも、それで良いんでしょうね。あくまでも本公演は、スッペ「ボッカチオ」ではなくて、浅草オペラの「ボッカチオ」なのですから。

 浅草オペラで最も人気のあった演目は「ボッカチオ」だったようで、1920年9月から1923年9月の関東大震災までの3年間、金龍館では70日間140回の公演が行われたようです。今回の舞台は、この浅草オペラ最大の人気作を1923年夏(即ち関東大震災直前)の金龍館で上演されるという設定で演じられました。ちなみに1923年夏の時点で、浅草オペラを上演する小屋は金龍館のみになっており、舞台上でライバルと目される日本館は既にオペラ上演を止めておりましたし、戸山英二郎は、既に藤原義江の名前で海外留学中でした。そういった細かい問題はあったにせよ、大正ロマンを意識した舞台作りは、面白いものでした。

 まず、開演10分前より、「おせんにキャラメル、メロンパンにアンパン」といういわゆる劇場の売り子の売り声に合わせて、大正風の着物を着た売り子さんが客席を回ります。この二人が、「ツル」ちゃんと「カメ」ちゃんでありまして、要するに、演目のピアニストとヴァイオリニストとが売り子をやっていたわけです。私も何か購入しようかと思ったのですが、あっという間に全て売り切れ。こういうお客さんの乗りは結構なものです。

 とにかく舞台は客席も含めて大正12年の金龍館で、「ボッカチオ」を上演しようとしていますが、市電のストライキで田谷力三以下のスター歌手が集まらないことから、指揮者の篠原正雄が困って、近くの人々を集めて「ボッカチオ」を上演してしまうという筋書き。従って、登場人物は当然乱暴な選び方。ボッカチオ役は、本来男声役(声部はテノールと書いてある文献とバリトンと書いてある文献とがよく分からない)ですが、蕎麦屋の出前持ちのマリコ(ソプラノ)にやらせてしまう、ロッテリンギ、スカルツァ、ランベルトウッチョの3役はランベルトウッチョの1役にまとめてしまうなどです。

 この改変のやり方が浅草オペラの常道だったかと言えば実際はそうではなかったようですが、そのような行き当たりばったりのやり方は、いかにも浅草オペラのチープさを感じるものです。なお、今回の演出は東京歌劇座のオリジナルかと思いましたが、どうも2000年7月に日本オペレッタ協会がオペレッタホールで上演した舞台の再演のようです。ちなみに2000年7月の舞台については、高本秀行氏が

「・訳詞は「浅草オペラ」そのままを用いる
・衣裳を「東京下町」の和服姿を基調とする
・セリフで引き延ばすことをせずに、「歌から歌」へと快適なテンポで紡ぎだして行く

 出演者は ソリスト6名 + ピアノ + ヴァイオリン と「浅草オペラ」以上に質素な編成であった。
 台本&演出 清島利典
 訳詞 小林愛雄(← 「浅草オペラ」時代の訳詞!)
による スッペ「ボッカチオ」。『現在』から「浅草オペラ」を振り返ったことを強調するためか冒頭に「浅草オペラ開演前のドタバタ」を入れたところは工夫だが、聴き手により好みの分かれるところ。
 しかし、序曲が始まってからは『純粋にオペレッタ』の世界である。服装こそ、和服(上流階級も居れば、庶民も居る)が基調となるが、「イタリアのフィレンツェ」が すぐそこにあるかのようだ。
 この台本が どこまで「浅草オペラ」時代に忠実なのかはわからないが、少なくとも 日本オペレッタ協会公演を聴く限りでは 次のことが言える。

  1.  音楽のカットは現在日本に限らず、世界のオペラ&オペレッタ界で行われている程度であり、スッペの原作に忠実である。
  2.  曲順の前後も 「現在のオペラ&オペレッタ界」程度である。
  3.  訳詞は「意訳」であり、とてもこなれている
  4.  登場人物は 相当に整理されており、スッペの原作よりも分かり易い。」

と書かれておりますが、今回の上演もほぼ同様と申し上げます。ピアニスト、ヴァイオリニストも2000年と一緒ですから、このときの再演またはリニューアルとみなしてよさそうです。

 音楽の出来は、「それなり」のレベルだと思いました。私は、細岡雅哉については本年1月の東京オペラプロデュース公演、ロッシーニの「とてつもない誤解」での歌唱で、布施雅也については、昨年秋の東京藝術大学学生オペラ実験工房「四年間の哨兵勤務」の歌唱でそれぞれ評価いたしましたが、今回の歌唱はこれらの歌唱と比較すると幾分弱い感じがいたしました。

 女声では、薗田真木子が頭抜けてよく、関真理子もなかなかよかったと思います。薗田の歌う「恋はやさし、野辺の花よ」は初々しさの匂うなかなかの歌唱でしたし、本来男声役のボッカチオを歌った関も、宝塚の男役みたいで素敵でした。この二人はA級を目指したB級と言うべきでしょう。北條聖子、蓮沼律子は取り立てて上手だとは思いませんでしたが、あの広さの会場では十分の力を発揮していたと申し上げてよいでしょう。

 演技は総じて大根で、十分にこなれているとはいえませんが、その中で細岡の演技は、下町の親父の雰囲気がよく表れていて上々でした。とにかくB級。芸術性をいえば、決して高いものではありません。もちろんB級に徹することは大変結構なことですが、B級ならB級として徹底して詰めた演技が欲しかったところです。でも、「ベアトリ姐ちゃん」や「恋はやさし」しか聴いたことのない、浅草オペラの一編を聴けたのは大変うれしいことではありました。

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鑑賞日:2005年5月21日
入場料:B席3500円 2F4列8番

主催:(財)日本オペレッタ協会

平成17年度文化庁芸術団体重点支援事業

オペレッタ2幕、日本語上演
オッフェンバック作曲「ラ・ヴィー・パリジェンヌ(巴里の生活)」La vie parisienne)
台本:アンリ・メイヤック/リュドヴィク・アレヴィ
改訂台本:ヴァルター・フェルゼンシュテイ
今回の公演台本:寺崎裕則
訳詞:滝 弘太郎

会場 新宿文化センター大ホール

指 揮 上垣 聡
オーケストラ 日本オペレッタ管弦楽団
合 唱 日本オペレッタ協会合唱団
合唱指揮 角 岳史
バレエ 東京バレエグループ
演 出 寺崎 裕則
ステージング・衣裳 藤代 暁子
バレエ振付 横井茂/新井雅子
美 術 牧野 良三
照 明 奥畑 康夫
舞台監督 高崎芳秀/金子ちえ

出 演

コンドルマルク男爵(スウェーデンの大地主) 小栗 純一
クリスティーヌ(男爵夫人) 宇佐美瑠璃
ラウル・ド・ギャルドフー(パリジャン) 田代 誠
ボビネ(ギャルドフーの友人) 小山陽二郎
メテルラ(ドミ・モンド) 柳澤 涼子
フリック(靴屋) 坂本 秀明
ギャブリエル(手袋屋) 針生美智子
ポーリーヌ(小間使い) 里中トヨコ
ユルバン(グランド・ホテルのガイド) 島田 啓介
マダム・カンベール・カラデック(パリの富豪) 木月 京子
ポンパ・ディ・マタドール(ブラジル人) 田代万里生
フォレ・ヴェルデュール(カラデック夫人の姪) 西尾 祥恵
アルフォンス(ギャルドフーの執事) 若菜 一義

感 想

楽しければ全てよし!?-日本オペレッタ協会、オッフェンバック「ラ・ヴィー・パリジャンヌ」を聴く

 オッフェンバックのオペレッタは昔からずうっと興味を持っていたのですが、実際に聴いた経験はあまりない。ホフマン物語は何度も聴いておりますが、オペレッタになると「天国と地獄」ぐらい。「ラ・ヴィー・パリジェンヌ」も全くはじめての経験でした。全く聴いたことがないはずなのに、聴こえてくる音楽はどこかで耳にした経験があるもの。オッフェンバックはそれだけポピュラリティーのある作曲家だったと言うことなのでしょう。

 お話はほとんどおバカ。パリジャンヌと仲良くなりたいという下心丸出しのスウェーデンの大地主と、そのスウェーデンの大地主の奥方を寝取ろうというパリジャンが主人公のドタバタ喜劇ですから、おバカ当然と言えば当然です。とにかく猥雑で、あけすけで、大胆で、勿論当時のパリ社交界に対する風刺もあるのでしょう。そして、庶民はこれを見て溜飲を下げたのでしょう。そんなことが十分に想像できる作品・舞台でした。お決まりのカン・カンも楽しかったです。カン・カンは、バレリーナの人数がもう少し多ければもっと見応えがあったに違いありません。

 そのように、作品の魅力の一端を知るには十分な舞台でしたが、作品の魅力を十全に示しえたかと言えば、相当に疑問です。まず、音楽に対して台詞が多すぎます。オペレッタは、音楽と台詞とで繋いでいく音楽劇ではありますが、あまりに台詞が多くなりすぎると音楽の流れがどうしても途切れてしまい、音楽に乗れなくなってしまいます。寺崎裕則の台本は、物語を理解するために十分親切なだけの大量の台詞を入れてあったようですが、物語が分かりやすくなった反面、音楽の勢いが随分削がれたようです。

 寺崎はプログラムの中に「余分なものを一切、切捨て、シャンパンの栓をポンッて抜くと、泡が、パアーッと勢いよく飛び散る! ナポレオン三世=第二帝政時代の19世紀のエスプリ、"軽さ"を命に、ものすごい速さのテンポで、歌も、歌うというよりせりふをしゃべるように歌い、活力あふれる舞台にし、その活力が大劇場全体を包み、観る人に"元気"を与えたい」と書いているのですが、どうもこの目標は達成できなかったと申し上げざるを得ません。もっともっと台詞を吟味して、内容を削いでよりシャープで勢いのある舞台を目指してほしかったと思います。

 歌手陣ではまず、針生美智子がよかった。この方、「ヴェニスの一夜」のとき大いに感心したソプラノです。今回は完成度では、「ヴェニスの一夜」のアンニーナに譲りますが、全身から湧き出す溌剌した雰囲気と、若々しい声は大いに魅力でした。ポーリーヌ役の里中トヨコも好演。小間使いがお色気あふれる海軍大将夫人に化ける役ですが、そのコケティッシュな魅力もさることながら、歌も決して悪くなく、収穫だったと思います。

 男声陣は、主役の二人が流石のできばえ。ゴンドルマルク男爵もギャルドフーも要するに笑われ役ですが、単なる「ぼけ」ではなく、哀愁を感じさせるところがベテランの味わいなのでしょう。小栗純一はオペレッタのスペシャリストのような方で、歌の上手さ、という点だけで言えば、ほかにもたくさんいると思いますが、あのなんともいえない味のある演技は、彼独自の境地だと思います。田代誠もいい。歌は必ずしも万全ではなかったと思いますが、なびかない女の尻を追い掛け回す様子は、やはりベテランの味わいです。田代は最近オペレッタでしか見ることはないのですが、この世界によくあっていると言うことなのでしょう。息子の田代万里生はまだこれから。声量をもう少し豊富にするところからはじめていただきたいところです。

 女声のヴェテラン陣は、宇佐美瑠璃がまずよかった。18曲「巴里に感謝を」は、高音部が絶叫調になってしまったなど、十分とは言いがたいのですが、それでも魅力のある歌声でした。柳澤涼子のメテルラも存在感はあったのですが、音楽は必ずしも文句なしとは行かないと思いました。

 以上、はじめて「ラ・ヴィー・パリジェンヌ」を聴き、それなりに楽しんだのですが、いろいろな意味で詰めの甘い上演だった、という気がしてなりません。演出ももっと練り上げれば更によくなったと思いますし、舞台上での演技ももっとソフティフィケートできたのではないかと思います。軽さを志向した割には音楽が重かったようにも思いました。

 「楽しければ全てよし!?」とタイトルをつけましたが、やっぱりそれだけではないだろう、そうまとめたいです。

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鑑賞日:2005年6月2日
入場料:ランク7 5670円 4F 2列19番

主催:新国立劇場

オペラ2幕、字幕付原語(ドイツ語)上演
ベートーヴェン作曲「フィデリオ」Fidelio)
台本:ヨーゼフ・フォン・ゾンライトナー/シュテファン・フォン・ブロイニング/ゲオルク・フリードリヒ・トライチュケ

会場 新国立劇場・オペラ劇場

指 揮 ミヒャエル・ボーダー
管弦楽 東京フィルハーモニー交響楽団
合唱指揮 三澤洋史
合唱 新国立劇場合唱団
演出・美術 マルコ・アルトゥーロ・マレッリ
衣 裳 ダグマー・ニーファイント=マレッリ
照 明 磯野 睦
舞台監督 菅原多敢弘

出 演

ドン・フェルナンド 河野克典
ドン・ピツァロ ペテリス・エグリーティス
フロレスタン トーマス・モーザー
レオノーレ ガブリエーレ・フォンタナ
ロッコ ハンス・チャマー
マルツェリーネ 水嶋 育
ヤキーノ 吉田浩之
囚人1 水口 聡
囚人2 青戸 知

感 想

夫婦愛の裏側に!-新国立劇場「フィデリオ」を聴く

 「フィデリオ」はベートーヴェン唯一のオペラ作品ということで、比較的よく上演されますが、作品としては二流です。この作品がベートーヴェンのものでなければ、滅多に上演されることのない作品になったのではないでしょうか。ベートーヴェンは、モーツァルトの「コジ・ファン・トゥッテ」や「ドン・ジョヴァンニ」を不道徳な作品として嫌っていたそうですが、音楽作品としての味わいは「コジ・ファン・トゥッテ」や「ドン・ジョヴァンニ」のほうが確実に上です。これは、まじめ人間ではあるが、女性と全く縁のなかったベートーヴェンよりも、エピキュリアン・モーツァルトのほうが人間の真実の姿を見る力を備えていた、ということなのでしょう。

 今回の新国立劇場「フィデリオ」は、ある意味ベートーヴェンの真面目さに忠実な舞台だったと思います。牢獄は、ヨーロッパの幽閉のシンボルともいえる塔。そこの前や中でドラマが進行します。ベートーヴェンの根暗な感じをインスパイヤした舞台で、結構面白いと思ったのですが、最後、ドン・フェルナンドが連れて入ってくるのは、花嫁・花婿。これまたベートーヴェンのかなえられなかった理想をあらわして見せたということなのでしょう。しかし、その見せ方は非常に通俗的であり、フィナーレで合唱の花嫁たちが、ブーケとベールをレオノーレに与えるのは、理想の夫婦(フロレスタンとレオノーレ)への憧憬であるように見えて、実際はマレッリの夫婦愛に対する疑問・疑念と言ったら言いすぎでしょうか?

 マレッリの演出は、このフィナーレだけでなく、視覚的に結構面白いものでありました。また、地の台詞が相当刈り込まれていることもあって、音楽の流れが演出や台詞に棹さされることもなく、全体的には結構なものだったと思います。

 反面音楽はいただけません。まず、指揮者のボーダーがドラマティックな表現に執着するせいか、全体として重たい音楽になっています。序曲から重い。重厚さが強調されてオペラの雰囲気がかもし出されるならばそれはそれでひとつの行き方なのでしょうが、ただゆっくりと歌わせるだけでそれ以上の工夫が感じられないのです。管がついていけないのも気に入りません。何か妙にデフォルメされた音楽に聴こえて、私は満足できませんでした。

 歌が入ると、この音楽のデフォルメはあまり気にならないのですが、オーケストラが単独で演奏するところは、どこでもこの妙なプロポーションが認められ、気になりました。せっかくマレッリが刈り込んでみせたオペラの姿をボーダーが台無しにした、というのが私の印象です。3月の新日フィルの「レオノーレ」が、アルミンクの素晴らしい指揮で音楽的には素晴らしかったけれども演出のまずさで感動できなかったのと対照的に、演出プランは満足できるが、音楽がつまらなくて感動できなかったというのが今回の感想です。

 歌手陣でよかったのは、タイトル・ロールを歌ったカブリエーレ・フォンタナ。キャリア25年のベテランですが、なかなかの美人で男装姿もみせます。声がこもりがちで抜けないところがありましたが、1幕9番の大アリアは流石の貫禄。取り立てて美声だとは思わないし、派手な声でもないのですが、要所要所をきちっと締めて、技術的にも丁寧で結構だったと思います。また、演技や表情もなかなかリアルで見応えがありました。

 ハンス・チャマーのロッコもよし。堂々としていて、それでいながら人のよさそうな雰囲気を上手に出していて、結構でした。流石ベテランということなのでしょうね。ほかに脇役陣では、吉田浩之のヤキーノがよく、わずかの出演ながら水口聡、青戸知の二人の囚人の歌もよかったと思いました。

 合唱もよかったです。「フィデリオ」の合唱は、ある意味典型的な合唱曲で、プロが歌って悪く聴こえるようなものではないのですが、第1幕フィナーレの「囚人の合唱」、第2幕のカンタータのような大団円の合唱、ともに聴き応えがありまして結構でした。

 一方、ピツァロ役のエグリーティスは、声量が一寸不足で見た目ほど貫禄が感じられませんでした。悪役は、もっと存在感がほしいところです。また、トーマス・モーザーのフロレスタンも問題。昔とった杵柄とでも言うのでしょうか、声は流石に魅力があるのですが、コントロールが甘い。びしっと決まらずスカスカ抜けてしまうところがあったのが残念です。

 水嶋育のマルツェリーネはもっとひどい。今回の上演のワースト歌手でしょう。特に新日フィルの「レオノーレ」で学生ながら素晴らしいマルツェリーネを歌った三宅理恵を聴いたあとでしたから、水嶋の締まらない歌には大きく不満を覚えました。河野克典のドン・フェルナンドは悪くはないのですが、声量の点でその他の出演者より見劣りがしました。

 以上あまり高くは評価できない舞台だと思うのですが、更に印象を悪くしたのが一点あります。今回台詞の部分はマイクを使って増幅させていたようですが、調整が今ひとつだったようで、演奏中、ハウリング音が何度も聞こえて興ざめでした。この辺は幕が上がる前に十分調整していただきたいと、つくづく思うしだいです。

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鑑賞日:2005年6月4日
入場料:C席 6000円 4F R2列24番

主催:インターナショナル・フリードリヒ・クーラウ協会

オペラ3幕、日本語上演
クーラウ作曲「ルル」Lulu)
台本:C.C.F.ギュンテルベア
日本語訳詞:大河原晶子、福井信子

会場 東京文化会館・大ホール

指 揮 石原 利矩
管弦楽 東京ニューシティ管弦楽団
フルート・ソロ トーケ・ルン・クリスチャンセン
合 唱 東京合唱協会
舞 踏 谷桃子バレエ団
演 出 十川 稔
美 術 升平 香織
衣 裳 佐野 利江
照 明 矢口 雅敏
振 付 伊藤 多恵
舞台監督 村田 健輔

出 演

ルル 福井 敬
シディ 澤畑 恵美
ヴェラ 高橋 薫子
バルカ 久岡 昇
ディルフィング 松本 進
羊飼い 青地 英幸
魔女1 武部 薫
魔女2 星野 恵里
魔女3 田村 由貴絵
羊飼いの娘 青木 雪子
幼い少女 藤山 沙保里
ペリフェリーメ 夏木 マリ

感 想

167年ぶりの再演!-インターナショナル・フリードリヒ・クーラウ協会「ルル」を聴く

 クーラウといえば、ピアノを習う子供なら誰でも練習するソナチネの作曲家として昔から知っている作曲家ですが、考えてみるとそれ以外の作品を聴いたことがありません。彼はデンマークの音楽史上最も重要な作曲家の一人だそうで、生涯に各ジャンルで200曲以上の作品があるそうですが、オペラは、今回上演された「ルル」が代表作。モーツァルトの「魔笛」と同じ原作に基づいて、1824年初演されました。モーツァルト「魔笛」に遅れること23年でした。しかし、この作品は、デンマーク以外で上演されることはなく、コペンハーゲンの王立劇場でレパートリーから外されたのが1838年。その後3回の演奏会形式の上演があって、ついに日本で世界初の新制作による舞台再演になったそうです。このような珍しいオペラは一寸聴いてみたいということで、出かけて参りました。

 モーツァルトの「魔笛」は善悪が途中で逆転するという特徴があります。即ち「夜の女王」の悪役化と「ザラストロ」の善玉化ですね。それは、モーツァルトのフリーメイスン傾倒がひとつの理由とされますが、「ルル」はそういう筋の上での複雑なことはありません。主要な登場人物を対応させると、

魔笛 ルル
ザラストロ ディルフィング
モノスタトス バルカ
夜の女王 ペリフェリーメ
タミーノ ルル
パミーナ シディ

となりますが、デイルフィングはあくまで悪役で、ペリフェリーメは娘をさらわれた母親。捕らわれた美しい姫君を助け出す勇者がルル、と分かりやすい構造です。また、音楽もモーツァルトやウェーバーの影響を受けている親しみやすいもので、難解のところの全くない作品でした。

 しかしながら、もうひとつの「魔笛」として復活させて、今後我々のレパートリーとして残しておくべき作品かと問われれば、「否」と申し上げざるを得ません。なぜならば聴いていて相当退屈だからです。どうもクーラウは、オペラの原則を理解していなかったのではないか、と思います。それは、オペラは感情のほとばしりを音楽で表すものだということです。クライマックスのルルとディルフィングとのやり取りが歌唱ではなく台詞でやられるところを観て、これは失敗作だなと思わずにはいられませんでした。重要な役柄であるペリフェリーメが語り役というのが、私自身としてはまず納得行きません。

 とにかく、楽しいアリアや重唱はあるのですが、全体としては音楽的なクライマックスがない。これでは聴き手の感情を揺さぶりません。これだけではなく、台詞による説明が多すぎるのもどうかと思います。台詞の半分でも音楽にすれば、随分感じ方も変わってくるのではないでしょうか。ドイツのジングシュピーゲルの手法を採用しているのでしょうが、この作曲の頃は、イタリアオペラでは、レチタティーヴォがセッコからアコンパニャートに変わりつつある時期で、台詞から音楽への流れがあったわけですから、もっと音楽を書いてほしかったなと思います。

 そのような作品の弱さは感じられたものの、演奏自身は大変結構なものでした。指揮の石原利矩は、この作品に対する強い思い入れが専門外の指揮に向かわせたものと思いますが、曲の魅力を示すのに十分な指揮をしていたと申し上げられると思います。オーケストラは取り立てて上手だということはありませんが、流石にフルート・ソロだけは別格。このオペラは、フルート・ソロのための作品という側面があるのですが、クリスチャンセンのフルートはその作品の魅力を引き出すのに抜群の演奏をしており、大変結構でした。

 歌手陣も勿論良好。福井敬、澤畑恵美、高橋薫子と来れば、現在の日本のオペラ界での実力で言えば本当のトップ三人みたいな人ですから、悪いわけはないのですが、予想に違わぬ出来でした。福井敬は、数年前の声の輝きが翳ってきているかな、という感じもしましたが、昔あまり得意ではなかった強い声も出ているようで、ヒーローの貫禄を示していました。また、福井は台詞回しもなかなかでよかったです。

 澤畑シディも結構でした。高音もよく伸びますし、演技も結構みせます。台詞回しも流石です。そして、高橋ヴェラも結構。第2幕のシディとヴェラの二重唱は、澤畑と高橋のちょっとした声質の違いが見事に噛み合って、大変素晴らしい演奏となりました。高橋の台詞回しが今ひとつだったのが残念ですが、音楽的には非常に楽しめるものでした。

 悪役の二人も悪くない。久岡昇のとぼけた味わいもよかったですし、松本進のディルフィングも良好。松本は悪相の方でバスの声と見た目の憎々しさが相俟って、結構な悪役ぶり。悪役が悪役らしく見えることは大切です。

 そのほか、夏木マリのペリフェリーメは舞台人の表現だけあって流石の存在感。舞台人の台詞回しを見ると、歌手の台詞は専門ではないな、という感を持ちました。その他の脇役陣も悪くない。3人の魔女の歌なども結構聴けるものでした。

 以上音楽的には結構楽しめた上演なのですが、上演に関してひとつだけ苦言があります。それは、日本語の歌詞がほとんど聞き取れないことです。勿論高橋薫子のように、あるいは二人の悪役のように比較的ましな方もいますが、ひどいほうは合唱。何を言っているのか全く聞き取れませんでした。これは、歌手の技術に帰すべきではなく、翻訳の問題です。デンマーク語のオペラということで、仕方なく日本語に訳しての上演だったと思いますが、オペラとして上演するまでに十分こなれていない翻訳だったということでしょう。はじめての上演ですから仕方がないことは確かなのですが、次回上演するときは、音楽に乗った日本語翻訳で(勿論字幕付原語上演歓迎)でやっていただければよろしいと思います。

 いろいろ申し上げておりましたが、167年ぶりで埋もれていたオペラを復活させた。これは、勿論快挙であります。石原利矩さんをはじめ、携わったインターナショナル・フリードリヒ・クーラウ協会の皆様にお祝いを申し上げます。

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鑑賞日:2005年6月27日
入場料:ランク7 5670円 4F 1列11番

主催:新国立劇場

オペラ2幕、字幕付原語(イタリア語)上演
プッチーニ作曲「蝶々夫人」Madama Butterfly)
台本:ルイージ・イッリカ/ジュゼッペ・ジャコーザ

会場 新国立劇場・オペラ劇場

 

指 揮 レナート・パルンボ
管弦楽 東京フィルハーモニー交響楽団
合唱指揮 三澤洋史
合 唱 新国立劇場合唱団
演 出 栗山民也
美 術 島次郎
衣 裳 前田文子
照 明 勝柴次朗
舞台監督 大澤 裕

出 演

蝶々夫人 大村博美
ピンカートン ヒュー・スミス
シャープレス クラウディオ・オテッリ
スズキ 中杉知子
ゴロー 大野光彦
ボンゾ 志村文彦
神官 大森一英
ヤマドリ 工藤 博
ケート 前田祐佳
書記 柴田啓介

感 想

落差の意味-新国立劇場「蝶々夫人」を聴く

 新国立劇場2004-2005シーズンの掉尾を飾るのが、新演出の「蝶々夫人」。何もわざわざ、「蝶々夫人」を新演出で上演しなくてもいいのに、と言うのは勿論「蝶々夫人」嫌いの私の戯言。日本での人気の高いこの作品を新演出で見せるということは、勿論最近集客の落ちてきている新国立劇場として考えるべきことでしょう。栗山民也の新演出は、ある意味非常に面白いものでした。

 装置を簡単に説明すると、全体が螺旋構造で、その真ん中に蝶々夫人の住む家があります。家のセットは象徴的で簡単なもので、舞台より一段高い場所であることから家だと分かりますが、そこを区分するのは障子と1本の柱だけ。この柱は、どこかで重要な役割を果たすのかと思い、しっかり見ておりましたが、美術的観点を別にすれば何にも使われておりませんでした。螺旋の上部には踊り場があり、そこには米国旗が飾られています。その踊り場と蝶々夫人の家を結ぶのが長い下りの螺旋階段です。

 蝶々夫人の台詞から判断すると、蝶々夫人の家は高台にあるはずです。しかし、栗山はその位置を階段の下に置き、アメリカの高いポジションと日本の低いポジションを象徴的に示しました。また、栗山は、華やかな第一幕の舞台を枯葉で飾り、この物語の不吉さを示し、一方で悲劇の第二幕は、沢山の花びらで舞台を埋めてみせました。この対比は、日本人の死の美学を象徴的に示したということなのでしょうか。

 舞台としては一幕が全くつまらなかったのに対し、第2幕は抜群の出来でした。演出は、第一幕、第二幕とも緊張感あふれる舞台の構築を狙っているように見ましたが、第一幕は音楽の緩慢さも影響しているのかもしれませんが、演出の期待ほど締まった舞台にはならず、悪く言えば間延びした舞台でした。一方第二幕は、音楽の流れと舞台の流れが見事にシンクロして、音楽的緊張感とドラマとしての緊張感とが共鳴しあう見事な舞台になっていたと思います。

 パルンボの指揮は、第一幕と第二幕とで取り立てて違ったものではありませんでした。基本的に生々しい音を要求していたようで、また音のアタックも強く全体的に切れ込みに秀でた音楽作りをしていたと思います。東京フィルも、ところどころ音の汚くなる場所があるのですが、全体的には金管や打楽器の強いアタックが印象的な生気あるものでした。全体に高揚感のある音楽作りで、イタリアオペラの経験の豊かさを見事に示したものでした。にもかかわらず、第一幕は舞台のドラマ性と音楽の造りのベクトルとが上手く噛み合っていないようで、退屈に聴こえました。

 勿論、そのように聴こえたのは、個別の歌手の出来も影響していると申し上げてよいでしょう。大村博美の蝶々さんは十分優れたものでしたが、演技・歌唱とも第一幕より第二幕が圧倒的に優れておりました。第一幕も全体の中ではそれほど悪いものではありませんでしたが、不安定な音程や声のかすれも聴こえ、決して本調子ではなかったと思います。ピンカートンのヒュー・スミスはそれ以上にお粗末。そのため、音楽的な集中が持続せず、聴き手に訴えないのですね。第一幕フィナーレの「愛の二重唱」は、「蝶々夫人」のクライマックスなのですが、まとまりが乏しくクライマックスのように聴こえませんでした。

 第二幕が素晴らしく進行したのは、ピンカートンが登場しなくなったからかもしれません。結果として蝶々さんの集中がどんどん上がっており、歌唱に含まれる緊張感が第一幕とは全然違いました。「ある晴れた日に」は細々と検証していけば、決して満点ではないと思いますが、ドラマを表現するオペラ・アリアという点では抜群の出来と申し上げてよいでしょう。凛としていて、それでいて情感もあり聴き応えのある歌でした。これだけではなく、第二幕の大村は、音楽の流れとドラマの盛り上がりとを見事にシンクロさせ、実に存在感のある歌唱演技を披露していたと思います。まさにプリマドンナです。

 また脇役陣も良好。オテッリのシャープレスが悪くないことは十分予測できたことですが、思いがけなかったのは中杉知子のスズキ。中杉はこれまで新国の舞台で何度か聴いたことがありますが、かつて一度も感心したことがなかった歌手です。今回は過去の失敗を打ち消すような働き。これほど歌えるとはうれしい誤算です。低音に深みがないなどの細かい問題はいくつかありますが、彼女のこれまでのベストと申し上げてよいのではないでしょうか。

 以上第二幕の緊張感は、オペラを聴く醍醐味を味あわさせてくれるものでした。

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鑑賞日:2005年7月18日
入場料:B席 2F 2列19番 6000円

主催:東京オペラプロデュース
74回定期公演  設立30周年記念公演

平成
17年度芸術創造活動重点支援事業

オペラ2幕、字幕付原語(ドイツ語)上演
マルシュナー作曲「ヴァンパイア(吸血鬼)」Der Vampyr)
台本:W.A.ヴォールブリュック

会場 新国立劇場・中劇場

指 揮 時任康文
管弦楽 東京ユニバーサル・フィルハーモニー管弦楽団
合唱指揮 伊佐地邦治
合 唱 東京オペラプロデュース合唱団
演 出 松尾洋
美 術 土屋茂昭
衣 裳 清水崇子
照 明 稲垣良治
舞台監督 八木清市

 

出 演

ルートフェン卿(ヴァンパイア) 三塚  至
マルヴィーナ 及川 睦子
ダーフェナウト卿 松村 英行
オーブリー 大川 信之
エミー 松尾香世子
ヤンテ 工藤 志州
ゲオルゲ 二階谷洋右
バークレー卿 大野  隆
ギャシル 望月 光貴
スクロップ 東海林尚文
グリーン 岡戸  淳
ブラント 大野  隆
スーゼ 丸山奈津美
吸血鬼の首領 杉野 正隆
バークレー卿の召使 森田  学
パース 白井 和之

感 想

ロマンチックよりスピード-東京オペラプロデュース、マルシュナー「ヴァンパイア」(日本初演)を聴く

 ハインリッヒ・アウグスト・マルシュナーのことは、全く知りませんでした。私は、音楽の基本的な事柄を調べるとき、音楽の友社の「名曲大事典」を使うことが多いのですが、これには、マルシュナーの名前すら出ていない。さすがにオペラ辞典には出ていましたが。それによれば、マルシュナーは、音楽史的には、ウェーバーとワーグナーを結ぶドイツロマン派前期の最も重要なオペラ作曲家らしいです。代表作が「聖堂騎士とユダヤ女」と「吸血鬼」。そんなわけで、「吸血鬼」を東京オペラプロデュースが上演すると聞いて、どんなオペラだか全く分からないけれども、是非聴きてみたいと思った次第です。

 粗筋は、「吸血鬼ルートフェン卿が、明日の深夜までに3人の処女の血をすわなければ、この世から消えてなくならなければならない。というわけで、その毒牙にかかる第一番目がヤンテ。ところがヤンテを殺されたことを知った父親のバークレー卿は、ルートフェン卿を刺し殺してしまいます。ところが吸血鬼は不死身ですから、そばを通った友人・オーブリーに助けを求め、月光のよく当たる岩山の上においてもらい、更にのろいをかけて明日まで、このことを話さないように願います。そして、第二の犠牲者がエミーが出、第3の犠牲者がオーブリーの恋人のマルヴィーナだった、ということです。マルヴィーナの父親のターフェナウト卿は、マルヴィーナの夫にマースデン子爵を選んでいるのですが、オーブリーは、彼がルートフェン卿であることを見破るのですが、のろいのために、ルートフェン卿が吸血鬼であることを言えない。さて、マルヴィーナの運命は!!」というものです。

 作品の舞台はスコットランドだそうです。我々が、スコットランドを舞台にしたオペラとしてまず思い出すのは、ドニゼッティ「ランメルモールのルチア」ですが、ほとんど同時代の作品(ルチア:1835年、吸血鬼:1828年初演)であるにもかかわらず、音楽の味わいは全く異なります。マルシュナーの音楽は、ウェーバーとワーグナーの音楽を足して2で割ったような音楽で、いかにもドイツ風の野趣あふれて力強いけれども、華やかさには一寸欠けるかな、といった風でした。現在は、ドイツ以外ではほとんど忘れ去られている作品のようですが、そんなに魅力の乏しい作品ではないと思いました。

 本来はジングシュピーゲルで台詞もそれなりにあるようですが、今回の公演では、台詞を最小限にして音楽だけで繋ごうとしていました。結果としてこれが成功。登場人物が多く、その関係も複雑で簡単に理解できないかな、と思って見たのですが、そんなことはなく、ストーリーがすっきりと頭に入り、コンパクトにまとまってなかなか良いものでした。

 この成功に最大の貢献をしていたのが指揮の時任康文。まだ若手の方ですが、非常に切れの良い指揮のする方でした。「ヴァンパイア」はドイツロマン派の作品ですから、陰影を前面に出したロマンティックなスタイルの演奏が当然考えられるわけですが、彼は、音楽を湿っぽくせずに、切れとスピードにこだわります。そのため音楽が澱みなく流れ、ドライだけれどもスピード感あふれる演奏になりました。このスピード感こそこの作品のコンパクトなまとまりの原動力になっていたと思います。とにかくブラボーです。東京ユニバーサルフィルも、格別上手だと感心するほどではありませんでしたが、指揮者の棒によく従って、推進力のある演奏を作り上げていたと思います。

 歌手陣では、まず、外題役の三塚至が良かった。ハイバリトンの方で、ルートフェン卿の悪魔的表現の凄みに欠けるものがありましたが、全体を通して、よく考え抜かれた役作りと表現で、大いに感心いたしました。第2幕1場のアリアが特に良いものでした。また、全体を通じて、ドン・ジョヴァンニを髣髴させる誘惑技術は、説得力があり結構なものでした。

 ルートフェン卿の毒牙にかかって殺される三人のソプラノもそれぞれがそれぞれに魅力的。まず、マルヴィーナ役の及川睦子がよい。はじめて聴く方だと思いますが、リリックな声質もよく、素直な表現も好感を持ちました。第1幕2場の登場のアリアがまずよく、フィナーレの歌唱も良いものでした。松尾香世子のエミーは、及川と比較するとずっと技巧的な歌唱。「吸血鬼のバラード」などなかなかよかったと思いますが、この作品にとって松尾の技巧的な歌唱が生きてくるか、という点では一寸疑問な感じがしました。ヤンテ役の工藤志州も悪くなかったです。

 一方、男声陣は今ひとつ。オーブリー役の大川信之ががんばっていたことを否定するものではありませんが、歌唱技術的な面で十分ではなかったように聴きました。ターフェナウト卿の松村英行も滑らかな表現という点で今ひとつのように思いました。ゲオルゲ役の二階堂洋右は相対的に優れていると思いました。

 ほかに聴いていて楽しかったのは、祝い酒の四重唱。いかにもドイツの民謡風音楽で、歌った大野隆、望月光貴、東海林尚文、岡戸淳のコミカルな歌声もよく、楽しめました。

 松尾洋の演出は、取り立てて論じるべきほどのものではないと思います。一寸野暮ったく、しかしながら、話を理解する目的には、さほど抽象的ではないというもので、ストーリー展開や音楽の邪魔をしなかったのはよかったのではないでしょうか。

 細々と申し上げれば不満はあるのですが、全体としては十分楽しめました。マルシュナーの傑作を認識できたのも良かったことでしたし、また、時任康文の才能を再確認できたことは、大きな収穫でした。

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鑑賞日:2005年7月28日
入場料:C席 3F 3列48番 7000円

主催:財団法人二期会オペラ振興会

東京二期会オペラ劇場
平成
17年度芸術創造活動重点支援事業

オペラ1幕、字幕付原語(ドイツ語)上演
ツェムリンスキー作曲「フィレンツェの悲劇」Eine FLORENTINISCH TRAGODIE)
原作:オスカー・ワイルド
台本:
マックス・マイヤーフェルト

オペラ1幕、字幕付原語(イタリア語)上演
プッチーニ作曲「ジャンニ・スキッキ」GIANNI SCHICCHI)
台本:ジョヴァッキーノ・フォルツァーノ

会場 新国立劇場・オペラ劇場

指 揮 クリスティアン・アルミンク
管弦楽 新日本フィルハーモニー交響楽団
演 出 カロリーネ・グルーバー
舞台美術 ヘルマン・フォイヒター
衣 裳 ヘンリケ・ブロンバー
照 明 大島 祐夫
舞台監督 大仁田 雅彦

 

出 演(フィレンツェの悲劇)

グルート・バルディ 大野 徹也
シモーネ 多田羅 迪夫
ビアンカ 菅 有実子

出 演(ジャンニ・スキッキ)

ジャンニ・スキッキ 直野 資
ラウレッタ(ジャンニ・スキッキの娘) 斉藤 紀子
ツィータ(ブォーゾの従妹) 三津山 和代
リヌッチオ(ツィータの甥) 大間知 覚
ゲラルド(ブォーゾの甥) 猪村 浩之
ネッラ(ゲラルドの妻) 浅野 美帆子
ベッド(ブォーゾの義兄) 大澤 恒夫
シモーネ(ブォーゾの従兄) 境 信博
マルコ(シモーネの子) 吉川 健一
チェスカ(マルコの妻) 山本 ひで子
スピネロッチョ(医者) 畠山 茂
アマンティオ(公証人) 栗原 剛
ピネッリーノ(靴屋) 笹倉 直也
グッチョ(染物屋) 追分 基
ゲラルディーノ(子役) 林 英之
ブォーゾ・ドナーティ(黙役) 篠木 幸寿

感 想

演出の力、音楽の力-東京二期会オペラ劇場「フィレンツェの悲劇」「ジャンニ・スキッキ」を聴く

 今回私が購入したチケットはC席。席番が3階3列48番だったのですが、いつもの癖で、新国4階で聴きました。不思議なことに、新国オペラ劇場4階3列48番も空いていたようで、誰からも文句が来なかった。私はいつも購入する時点で一番安い席を買うことにしているのですが、今回は売り切れだったはずのD席が実際は余っていた、ということのようです。私の隣も空席でした。1列目の方が乗り出してご覧になっているので、舞台が見えにくくて困ったのですが、こんなことなら、堂々と3階で聴けばよかった。

 閑話休題。今回のこの二本立ては十分に楽しめるものでした。その貢献者はまず演出家で、次に指揮のアルミンクと申し上げて間違いありますまい。ツェムリンスキーとプッチーニはどちらも20世紀初頭に活躍した作曲家ですが、その作風は全く違います。ツェムリンスキーは、ドイツ後期ロマン派と十二階音楽を繋ぐ過渡期の作曲家で、調性がほぼ破壊された中で独特のロマンチシズムが息づくのに対し、プッチーニは、イタリアオペラの伝統の最後を飾ります。管弦楽法は複雑になっていますが、基本的に調性を大事にする作曲家でした。そんな二人の作品を、舞台がそれぞれフィレンツェであるという理由だけで結びつけるのは本来無理があると思うのですが、グルーバーは、そこを自然にやり遂げました。

 「フィレンツェの悲劇」は、ひとつの邸宅の地下室での出来事、「ジャンニ・スキッキ」はサロンでの出来事。さらに申し上げれば、「フィレンツェの悲劇」で殺されるグルートは、「ジャンニ・スキッキ」では、死んだヴォーゾ・ドナーティになります。即ち、痴話喧嘩の結果殺された男(フィレンツェの悲劇)の遺産相続争い(ジャンニ・スキッキ)というまるで二幕ものの作品のように見せました。いうなれば、第1幕が色欲であり第2幕が金欲のオペラ、ということです。おもちゃ箱をひっくり返したような演出で、細々としたところにいろいろと注目すべき点があったのですが、それは別に書きます。

 「フィレンツェの悲劇」は、1992年9月に東京フィルのオペラコンチェルタンテシリーズ第2回で日本初演されました。指揮が大野和士、グルート・若本明志、シモーネ・多田羅夫、ビアンカ・伊原直子というコンビで、そのときの演奏を私は聴いております。いい演奏だったと思うのですが、オペラ自身の持つ頽廃性はあまり見えなかったような演奏だったように覚えています。このときは演奏会形式でバレエが入ったのですが、バレエがどうだったかは記憶にありません。

 今回の二期会公演も演奏は退廃的ではなく、彫りの深い明快なもので、ツェムリンスキーの書いた音の厚みを十分に楽しめるものでした。アルミンクは劇的な表現を前面に出して、交響曲のように演奏しました。部分部分の音がしっかりしていて硬軟のバランスがいい。官能的な感じは全然しないのですが、演奏と歌唱と退廃的演出とが違和感なく混ざり合って、彼の才能を再認識するのに十分なものでした。大ブラボーです。新日フィルの演奏もすっきりしていて上手でした。

 グルーバーはこの作品をアブノーマルな関係を背景とした三角関係として演出しました。ビアンカの衣装はSMの女王様のようですし、シモーネも上半身裸になって肉体を誇示します。勿論三人ともアブノーマルです。ビアンカと間男のグルートはその関係をシモーネに対して露骨に見せつけますし、それをシモーネがビデオで撮影するというのですから異常です。女装もありますし、鞭や鎖も出てきます。倒錯的性愛と申し上げればそうなのでしょうが、その異常な空間の中で官能的というよりは心理的に追い詰められていく三人がいます。ベテラン勢にとっては結構つらい演出だったと思いますが、みな吹っ切れた演技でよかったと思います。演技が音楽の緊迫感と上手く噛み合っていました。二期会から「謹告」などという葉書が来たものですからどんなにすごい演出になるか、と思いましたが、そう驚くほどではありませんでした。会場では結構引いている方もいらっしゃいましたが。

 歌は、オーケストラの演奏や演出・演技と比較して取り立てて優れているものとは思いませんでした。それでも三人ともベテランです。歌が音楽の表に出て、音楽の流れを邪魔せずに、演奏に溶け込んでいましたし、一方で、オーケストラに負けない程度の声量は出ていました。そういうわけでこのプロダクションは、トータルのレベルの高さという意味で、非常によいものだったと思います。

 後半のジャンニ・スキッキは、「フィレンツェの悲劇」よりも驚きの演出でした。しかし、私は、この演出が「ジャンニ・スキッキ」の本質をよく突いていると思いました。

 ブォーゾ・ドナーティが亡くなってやってくる親戚は、皆立派な衣装を着た上流階級の人のようですが、考えているのは遺産をどれだけ貰えるかだけ。そこで一人変わっているのがリヌッチオです。彼は金髪の髪を逆立てたパンク・ロッカーとして登場します。彼女であるラウレッタは日本の女子高生。ルーズソックスか紺のハイソックスを穿いていないのが玉に傷でした。ジャンニ・スキッキも下層労働者として登場します。上半身はシャツ姿ですが、前ボタンを全てあけ、下着が丸見え。首に手ぬぐいをぶら下げて、ズボンはジャージです。

 この下層の知恵者が欲の皮が突っ張った上流階級を手玉にとるというのが筋です。普通はリヌッチオとラウレッタが善良な若い恋人同士とされるわけですが、実際は勿論違います。「私のおとうさん」は、「私がカレシと一緒になれるようにうまく知恵を出してあげて、そうしないと川に身をなげるぞ」というわがまま娘の脅しの唄ですから。そういう不良娘とパンク兄ちゃんとのお付き合いですから、幕が下りる前に、一幕(フィレンツェの悲劇)で使われた鞭をラウレッタがふるうのは当然かもしれません。それでも、このパンク野郎と女子高生の動きは、完全に意表を衝かれました。

 そんなわけで、演出は完全に首肯できるもので、大満足。アルミンクと新日フィルの演奏もすっきりとしたセンスのいいもので、これまた満足。歌手陣は、外題役の直野資は流石の貫禄で、工事現場の親父みたいなジャンニ・スキッキを歌い且つ演じました。見た目も歌も演技も十分面白いものでブラボーでしょう。ラウレッタの斉藤紀子は、聴かせどころの「私のお父さん」が今ひとつで、技術的にもそうですが、それより、演出が目指していたしたたかさの表出が今ひとつで残念でした。大間知覚のリヌッチオも声・歌ともに今ひとつな感じでしたが、パンク兄ちゃんの乗りの良い演技があったので、満足です。その他の親族も動きがなかなかよく、アンサンブル・オペラとしての「ジャンニ・スキッキ」を上手く纏め上げたと思います。このアンサンブルこそ二期会の本領と申し上げるべきかもしれません。

 もうひとつ、死体役の篠木幸寿の演技がまたおかしくて結構でした。自分から動けない死体役なのにパントマイムの力で十分みせてくれました。特筆ものです。

 演出の力と音楽の力の程好い調和で、うれしい一夜となりました。

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鑑賞日:2005年8月29日
入場料:D席 4F L1列28番 7000円

主催:財団法人日本オペラ振興会
藤原歌劇団公演

平成
17年度芸術創造活動重点支援事業

オペラ4幕、字幕付原語(イタリア語)上演
チレア作曲「アドリアーナ・ルクヴルール」Adriana Lecouvreur)
台本:アルトゥーロ・コラウッティ

会場 東京文化会館大ホール

舞台は,1966年製作ローマ歌劇場舞台装置による

指 揮 菊池 彦典
管弦楽 東京交響楽団
合唱指揮 及川 貢
合 唱 藤原歌劇団合唱部
バレエ スターダンサーズ・バレエ団
振 付 エリベルト・ヴェラルディ
演 出 マウロ・ポロニーニ
演出補 シルヴィア・カッシーニ
美 術 エットレ・ロンデッリ
衣 裳 マリーア・デ・マッテイス
照 明 石川 紀子
舞台監督 大仁田雅彦

 

出 演

アドリアーナ・ルクヴルール ヴェロニカ・ヴィッラロエル
マウリツィオ マルチェッロ・ジョルダーニ
ブイヨン公爵夫人 エレーナ・カッシアン
ミショネ 堀内 康雄
ブイヨン公爵 久保田 真澄
シャズイユ修道院長 持木 弘
マドモアゼル・ジュヴノ 小林 厚子
マドモアゼル・ダンジュヴィル 永田 直美
ポアソン 小山陽二郎
キノー 田島 達也
公爵の執事 納谷 善朗

感 想

名声の威力-藤原歌劇団「アドリアーナ・ルクヴルール」を聴く

 アドリアーナ・ルクヴルールが東京で本格的に舞台上演されたのは、今回の藤原歌劇団で3回目です。最初は1976年の第8次「イタリア歌劇団」公演で、カバリエ(アドリアーナ)、コッソット(公爵夫人)、カレーラス(マウリツィオ)というコンビ。次の舞台は1993年のボローニャ歌劇場日本公演で、フレーニ(アドリアーナ)、コッソット(公爵夫人)、ドヴォルスキー(マウリツィオ)という組み合わせでした。今回はそれ以来の舞台演奏。そのほかに演奏会形式では、1994年6月、東フィルのオペラ・コンチェルタンテ・シリーズでリッチャレルリ(アドリアーナ)、西明美(公爵夫人)、小林一男(マウリツィオ)のコンビが歌っています。私が最初に「アドリアーナ・ルクヴルール」を聴いたのはこの東フィルオペラ・コンチェルタンテのことで、今回が2回目。

 それにしても、このアドリアーナ歌いの歌手の流れから見て、デッシーが歌わないのはつらいです。デッシー夫妻がお母さんの死亡でキャンセルしたあとの僅かの時間で、よくヴィッラロエルとジョルダーニのスケジュールを押さえたものだと感心いたしますが、でもヴィッラロエルでは、「名」がない。「名」があるからといって、いい歌が歌えるわけではないですが、「名」がなければ、プラスアルファを感じることが出来ないのもまた事実です。ヴィッラロエルは、デッシーの代役を十分勤められたかと申し上げれば、やはり不満を申し上げなければならないでしょう。

 まず第一幕がいただけない。主役としての存在感に乏しいので、登場してもぱっとしない。更に登場のアリア「私は創造の神のしもべです」は凛々しさの感じられない歌で、どうにも締まらない。かつてのリッチャレッリは、ここで会場の気持ちをがっちりつかんだのですが、とてもそんなレベルではありません。そういえば、私は、7月末にアンナ・トモワ=シントウの「私は創造の神のしもべです」を聴いたばかりですが、トモワ=シントウは、声の出や質では衰えが隠せませんでしたが、存在感はヴィッラロエルの比ではなかったように思います。とにかく第一幕のヒロインは、どうみても十分といえるレベルではありませんでした。

 テノールも低調。勿論いいところもあるのですが、全体に硬い。硬質の高音は魅力的ではあるのですが、中音がまた乏しいので全体として豊満な感じがしない。若い青年を演じるときはこのような声はよろしいと思いますが、魅力的な熟女二人を手玉に取る役の声としては、今ひとつ真実性に乏しいと思いました。このアドリアーナとマウリツィオの歌う愛の二重唱。これまた高揚感に乏しく、今ひとつ感心できませんでした。

 反対に良かったのはミショネの堀内康雄。第一幕の切々とした表現は流石に魅力的なものでしたし、その後も要所要所でしっとりしたいい歌でヴィッラロエルやジョルダーニの歌をサポートしていました。コミカルな役柄である持木弘の僧院長や久保田真澄の公爵も十分で、存在感もあり,歌もよかったと思います。

 さて、第2幕に移ると登場するのが公爵夫人。このカッシアンの公爵夫人が抜群。美声ですし,かつ音色にムラがなくよかったと思いました。ドスの利いた低音はあまり出さないのですが、その結果歌が上品で、公爵夫人の雰囲気がよく出ていました。このオペラでは、「アドリアーナ」=ヒロイン、「公爵夫人」=ライバル(悪役)という図式が成立するのですが、ヴィッラロエルとカッシアンを並べてみると、私はカッシアンを支持したくなりました。

 なお、一幕では全然いいところがなかったヴィッラロエルでしたが、二幕以降は復調。最良のアドリアーナではないにしろ、十分聴けるレベルになりました。第二幕の公爵夫人との二重唱は、カッシアンに押されていたものの相当健闘しておりましたし、第3幕の二人の鞘当とそこから続く「フェードル」の朗唱は本日の白眉というべきではないでしょうか。

 オペラのベースとなる菊池彦典指揮の東京交響楽団の演奏は、なかなかよかったと思います。菊池はこのような劇的なイタリアオペラを振るとき、彼の長所がよく見えるとかねがね思っているのですが、本日も例外ではない。菊池の熱血がオケにも伝わり、活気のあふれる演奏に仕上げっていたように思います。弦楽器のソロも十分美しいものでした。ホルンが外さなければ文句なし、と申しあげましょう。

 演出は1966年ローマ歌劇場プレミエの舞台。写実的な舞台ですが、舞台の質感は日本の演出家には出せないものではないかと思いました。オーソドックスですが、美しくて結構でした。

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鑑賞日:2005年9月1日
入場料:A席 2F R2列42番 4000円

主催:産経新聞社

オペラの華シリーズ第2回
ロシア、フランス・オペラの夕べ

会場 東京オペラシティコンサートホール

指 揮 齊藤 一郎
管弦楽 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

プログラム

ビゼー「カルメン」より
前奏曲   オーケストラ演奏
ハバネラ「恋は野の鳥」 森山京子(メゾ・ソプラノ)
間奏曲第1番「アルカラの竜騎兵」   オーケストラ演奏
ジプシーの歌「鈴を鳴らして」 森山京子
闘牛士の歌「諸君の乾杯を喜んで受けよう」 牧野正人(バリトン)
花の歌「お前が投げたこの花は」 中鉢 聡(テノール)
ミカエラのアリア「何を恐れることがありましょう」 砂川涼子(ソプラノ)
第4幕より「あんたね?」「俺だ」〜フィナーレ 森山京子/中鉢 聡
休憩
グノー「ファウスト」より
前奏曲   オーケストラ演奏
メフィストフェレスのセレナード「眠ったふりをせずに聞きたまえ」 久保田真澄(バス)
サン=サーンス「サムソンとデリラ」より
デリラのアリア「あなたの声に心は開く」 藤川真佐美(メゾ・ソプラノ)
グノー「ロメオとジュリエット」より
ジュリエットのワルツ「私は夢に生きたい」 高橋薫子(ソプラノ)
ムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」より
ボリスの死「さようならわが子よ〜聞けとむらいの鐘が鳴る」 彭 康亮(バス)
チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」より
ポロネーズ   オーケストラ演奏
レンスキーのアリア「青春の日は遠く過ぎ去り」 持木 弘(テノール)
タチヤーナの手紙の場面「破滅してもいいわ」 佐藤 ひさら(ソプラノ)
アンコール
オッフェンバック「ホフマン物語」より「舟歌」   全員

感 想

実力派の競演-オペラの華シリーズ第2回「ロシア、フランス・オペラの夕べ」を聴く

 観客のリクエストに応えてオペラ・アリアを選ぼうという試み、オペラの華シリーズ第2回「ロシア、フランス・オペラの夕べ」に行ってまいりました。歌うのは、藤原歌劇団で現在最も活躍している歌手の皆さん。週末の「アドリアーナ・ルクヴルール」に出演されていた方も含まれています。この方々が総じて聞き応えのある歌唱をしてくれました。楽しめた一夜でした。

まず、リクエスト結果の発表です。リクエスト総数85通。これが多いのか少ないのか分かりませんが、

1位 ビゼー「カルメン」
2位 チャイコフスキー「エフゲニー・オネーギン」
3位 グノー「ファウスト」
4位 グノー「ロメオとジュリエット」
5位 ムソルグスキー「ボリス・ゴドゥノフ」
6位 サン=サーンス「サムソンとデリラ」
7位 チャイコフスキー「スペードの女王」
8位 オッフェンバック「ホフマン物語」
9位 マスネ「ウェルテル」

 で「カルメン」が過半数の票を獲得したそうです。これは納得です。考えてみると、私はカルメンは随分いろいろな舞台を見ておりますが、ここにあげられたそれ以外の作品で、2回以上舞台を見たことがある作品は、「ホフマン物語」だけです。「サムソンとデリラ」と「スペードの女王」に至っては、恥ずかしながら一度も観た経験がない。そう思うと適当なところでしょう。考えてみれば、ドビュッシーの最高傑作ともいえる「ペレアスとメリザンド」が抜けている、とかラヴェルの「スペインの時」がないぞ、とかトマの「ハムレット」、「ミニョン」はどうしたとか色々ありますけど、メジャーとはいえないのかも知れません。

 このリクエストの順番にあわせて、「カルメン」からは8曲、「エフゲニー・オネーギン」から3曲、「ファウスト」より2曲が演奏されました。

 歌唱は総じて良好。まず森山京子のカルメンが良い。彼女は、現時点での日本のカルメン歌いの中で一番実力のある方だと思いますが、「ハバネラ」といい、「ジプシーの歌」といい、存在感のある落ち着いた歌でよかったと思います。中鉢ホセもぴったり。声質がドン・ホセというキャラクターに良く合っているのではないかと思います。まだ、彼はホセを全部歌ったことが無いそうなので、どこかのプロデューサーの判断に期待しましょう。

 牧野正人の「闘牛士の歌」は、森山、中鉢の歌と比較すると一寸落ちます。格別悪い歌ではないのですが、牧野さんの声質・キャラクターと「闘牛士の歌」との間に若干のズレがあるように思いました。また、技術的にそれでどうこう、ということはないのですが、歌に疲れを感じました。

 砂川涼子のミカエラのアリアが良好。カルメンの対抗として田舎娘の純朴さを表に出す歌ではなく,女の内に秘めた情念を表現しようとする表情に富んだ歌。その結果としてミカエラの年齢が不詳になってしまいましたが,聴き応えのある歌であったことは間違いありません。

 久保田真澄のメフィストのアリアはなかなかスタイリッシュで、表現として完結していたと思います。しかし、メフィストとしては軽量級であることは否めません。悪役の凄みを感じることの出来ない歌だったと申し上げましょう。これは、彭康亮の「ボリスの死」も同様。彼らの表現としては十分にバランスが取れていて悪いものではなかったのですが、ボリス・ゴドゥノフという重量級の性格からいえば、ちょっとかっこよすぎる歌でした。

 藤川真佐美の「デリラのアリア」。これは立派でした。デリラの存在感を十分に感じさせる歌でした。むんむんした色気の感じがでれば更に良いように思いました。高橋薫子のジュリエット、これはもう彼女の十八番ですから何も付け加えることはありません。安心して楽しみました。

 持木弘のレンスキーのアリア、スピントの程よく利いた歌唱で非常に聴かせる歌でした。声質も良いし、声もよく通る。逆に通り過ぎて響きがにごるくらいでした。感心いたしました。佐藤ひさらのタチヤーナも細かい表現まで行き届いた歌唱でよかったと思います。もう少し声量があれば、音楽のダイナミクスが広がり更に良かったのではないかしら。

 という訳で、全体としてみれば、みな高レベルの歌唱を示してくれたと思います。ガラコンサートですから、自分の不得意な歌は歌わないというものの、ここまで揃うのはなかなか珍しいのではないでしょうか。流石、藤原歌劇団の実力派メンバーの歌唱でした。

 指揮の齊藤一郎は、以前に聴いたときより落ち着いていて、歌手とのコミュニケーションも取れていたように思います。しかし、オーケストラは鳴らしすぎです。特にオケのみの演奏。響きが回ってしまって反響音と共鳴して変に聴こえるところが多々ありました。シティ・フィルの演奏も技術的に完璧とはいえないため、音響の濁りが更に増幅されたようにも感じました。

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