優雅な欲望

さわりの紹介

 そんなあぐりをちらっと見ておいて、
「お早う、桜井礼助さん。」
 と、もと子は、鷹揚に応じた。
 そういうときでもおのずから姉御の貫禄が出ていた。しかし、それが少しも嫌味になっていないのは、三十歳に近くなりながらいわゆる世帯じみたところがないばかりか、中年の女としての魅力を失っていず、また濁った感じに程遠かったからであろうか。桜井礼助と雖も、もと子にはかねてから一目もニ目もおいていた。
「一昨夜は、いろいろと有りがとうございました。」
 あぐりがいった。あの後、家へ帰ってから大変だったといいたいところであった。
「いや、いいんですよ。ところで僕は、さっきからうしろをついて来たんだけど、君が本山さんとこんなに親しくして頂いているとは思わなかったなア。」
「でしょう?」
 あぐりは、わざと威張ったようにいって、
「あたし、今日から本山さんの妹分にして頂いたんです。」
「妹分?」
「そうよ。」
「本当ですか、本山さん。」
「妹分というのは嘘だけど、さんざんせがまれてお友達ということに。」
「ああ、本山さんとならいいことだ。僕からも厚くお礼をいっておきます。」
「ちょっとお聞きしますがね、桜井礼助さん。」
「はい。何んでございましょうか。」
「あたし、これで随分と社内の情報に通じているつもりであったけど、あなたと鏡さんとが恋人同士であったなんて、すこしも知りませんでしたわ。」
「あら。」
 あぐりがいった。
「恋人同士ねえ。」
 桜井礼助は、わざと感慨深そうにいった。
「結構でしてよ。桜井礼助さんなら社内の若手社員の中でもまアまアの方だし。」
「まアまアの程度ですか。」
「ご自分では、どう思ってらっしゃるの?」
 桜井礼助は、考えていてから、
「おっしゃる通り、せいぜいでまアまアの程度のようですね。」
「鏡さんにはもったいないくらいでしてよ。」
「ちがうのです。」
 あぐりがいった。
「違うって?」
「あたしと桜井さんとは、恋人同士なんかではありません。」
「おやおや。いいの、桜井礼助さん。」
 桜井礼助は、頭をかいて、
「実をいうと、僕だけが一方的に鏡君をかねてから恋人と思っていたんですが、それを打ち明けるチャンスがなくて困っていたところ、一昨夜偶然に銀座で会うことが出来たのです。あのときは、これぞ天の恵み、しめた、と思いましたねえ。」
「それで?」
「僕としては自分の気持ちを打ち明けたつもりなんですよ。が、鏡くんからはいい返事を貰えるところまでいたりませんでした。」
「お気の毒に。」
 もと子は、冷やかすように行った。しかし、桜井礼助を嫌っているようではなかった。」
 恐らく桜井礼助は、もと子の眼鏡にかなっている社内の若手社員の数すくないうちの一人といっていいのではあるまいか。だからこういう軽口が利けるのかも。そのことがあぐりにも感じられ、今後そういう男と協力して、叔父と竹林紅子との結婚を阻止するために動くのだと思うと嬉しかった。まして今のあぐりは、叔父ともと子をと思っているのである。
「大丈夫ですよ。」
「たっぷり自信がおありになるらしいわね。」
「だって、この人生って自信の問題でしょう?自信をもって行動すれば、たいてい成功しますよ。」
「ご高説傾聴しておきましてよ。」
「恐れ入ります。それに僕と鏡君は、今後しょっちゅう会うことになっているのです。張り切らざるを得ないのです。」
 いっておいて桜井礼助は、
「ところで鏡君、僕は、結局もっとあの女の身辺を洗うことだと思うんだよ。そして、その調べたことを君の叔父さんの前に差し出すのだ。とにかく、あの竹林紅子という女は。」
「ちょっと。」
 もと子がいった。
「何ですか。」
「今、竹林紅子とおっしゃったわね。」
 どうやらもと子は、竹林紅子を知っているらしいのである。会社の玄関口に来ていた。

作品の話

 「優雅な欲望」は「週刊明星」に1969年6月から1970年8月まで1年2箇月にわたり連載された長編小説です。源氏鶏太は1970年前後からオカルティックな作品を書くようになるのですが、この作品はオカルティックではないものの、人間の「さが」というべきものを描いて、源氏の後期の代表作になり得ているものと思います。

 この作品は、「叔父と姪との愛」というキャッチフレーズで語られるのですが、その本質は「血とさが」であって、運命論的考え方が底流に流れています。「表」の主人公は、鏡あぐり、21歳ですが、その正に鏡像として、「裏」の主人公であるあぐりの姉、志おり24歳、がおります。最後まで健全な風俗小説家であった源氏鶏太は、あぐりを正、志おりの邪という立場で対比的に描いてみせておりますが、あぐりと志おりとは、本来表裏の関係です。この対極的な二人の姉妹を作り出したところに、この作品の膨らみがあります。

 鏡あぐりは、丸の内の会社に勤めるOLです。母親と姉との三人暮らし。父親は10年前に家族を棄てて女性と蒸発して行方不明。母親は銀座の三流バーのマダムをやっておりますが、パトロンの社長と毎週末外泊するような女性です。姉の志おりもOLですが、会社の専務の愛人として、毎月5万円貰っています。あぐりは、このような家庭環境が災いして、婚約者の杉本修一から婚約を破棄されて失恋します。ここがこの小説のスタートです。

 傷心のあぐりを慰めるのは、同僚の好青年・桜井礼助と母の弟で建築設計をやっている滝圭太郎34歳です。圭太郎は姪のあぐりが可愛くて仕方がありません。「もし、あぐりが僕の姪でなかったら、少しぐらい強引に僕のお嫁さんにしたかもしれない」といっております。とはいえ、圭太郎は好色で淫蕩な母の弟だけあって、これまで沢山の女性と関係し、現在は竹林紅子という29歳の女性編集者と結婚しようとしています。紅子は類稀なる美貌の持ち主ですが、男性関係に関しては良からぬうわさを沢山もっており、圭太郎の周囲の人間は、紅子との結婚に反対しています。しかし、紅子が妊娠しており、その父親が圭太郎である、という紅子の言葉を信じて結婚しようとしているのです。

 ストーリーの一本の柱は、あぐりが最愛の叔父が悪女と結婚しないように、桜井礼助や会社の先輩のOL・本山もと子と協力して、紅子の悪女ぶりを暴く所にあります。そのためにあぐりは最初、叔父と本山もと子とをくっつけようとします。この中であぐりは10年前蒸発した父親と再会し、母親と自分が血のつながりがないことを知り、父が蒸発した理由も知ります。そして、自分が圭太郎を愛していたことに気づくのでした。

 ストーリーのもう一つの柱は、志おりの生き方です。志おりは会社の専務・早坂と愛人関係にありますが、早坂の頼みで、取引先の営業部長・安藤と夜を共にすることになります。そして、志おりは早坂と安藤から別々に手当てを貰う身分となります。同様に安藤からの頼みで、安藤の取引先の浅野とも寝ることになります。志おりは、普通の結婚なんて全く考えず、何人かの男を手玉にとってお金を集め、将来は母親よりもずっとましなバーを経営したいと考えています。志おりの愛人たちは当然志おりを軽んじていますが、志おりも彼らをお金をなる木であるとしか見ていません。好きなことをしてお金が入るのは幸せだという感覚です。

 あぐりはこういう生活をおくる姉が嫌いですし、志おりはこういう自分の生き方を批判げに見る妹を愛しておりません。あぐりと志おりのこういう違いは、作者のいう血のつながりの違いによるものです。モラリスト源氏鶏太は、あぐりと圭太郎の愛を上手くさばいて、深刻にせずに大団円にいたらせますが、「裏」の主人公、志おりについても、否定的には描きますが、図太く自分の生き方を貫かせます。

 源氏鶏太が描いて来た若い女性は常にあぐりタイプであり、悪役としてカウンター的女性を描いてはいるのですが、悪役の女性をこれまで詳細に描いた例はなかったように思います。志おりを登場させることによって、「優雅な欲望」を凡百の作品から、読みごたえのある作品にしたてています。

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