夢を失わず

さわりの紹介

(やっぱり、好きな人といっしょの方がいいわ)
 杉子が、はじめに思い浮かべたのは、喜多周三の顔であった。周三なら頼めば、いっしょに行ってくれるだろう。
(だけど、あの浪費ぐせがなおらないことにはどうしようもないわ)
 ダルマの貯金箱に、毎日、何十円かを放り込んでいるのは、たいへんな進歩である。それは、認めてやってもいい。しかし、喜多周三は、杉子の相談相手にはなってくれるが、それ以上の好意は、一向に示してくれないのである。
(きっと、いつか、あたしのように百二十万円からの財産のある女が、あなたなんかと結婚すると思って、とやり込めたのでこわがってるんだわ)
 杉子は、そんな周三に、意気地なし、といってやりたいくらいだった。男のくせに、ともといってやりたいくらいだった。しかし、だからといって、杉子は、自分から前言を取り消そうとは、すこしも思っていなかった。まだ、君子は危うきに近寄らずだわ、と考えていた。
(花園さんは、もちろん、問題にならないわ)
 そのあと、杉子は、宗武竜之介の端麗な顔を思い出して、なんとなく、胸をどきんとさせた。その宗武にすすめられて買った大塚工業の株は、この数日で、八円の値上がりをしめしていた。ほとんど、動かなかった株が、なのである。

 だから、杉子が、今日にも大塚工業の株を売れば、数日間で一万円のもうけ、ということになるのである。
 しかし、杉子は、もうしばらく持っていよう、と思っていた。喜多周三によれば、大塚工業の株価は、百二十円の値打ちがあるというし、自分の会社の株を持つことは、愛社精神の一つのあらわれ、ということになるのだそうだ。
 ただし、杉子が、宗武の端麗な顔思い出して、胸をどきんとさせたのは、
(千万円!)
と、いう言葉が、頭にひらめいたからであった。
 その千万円を、宗武が杉子との結婚のために出してもいい、といったそうなのである。
「まア、千万円?」
 杉子は、それをいった周三を見かえすと、
「なんだ、千万円ぐらいでそんなに目の色を変えるな」
 と、周三は、面白くなさそうにいった。
「だって、千万円なら大金だわ」
「君は、千万円ぐらいで、あんなやつに買われる気か」
「失礼ね」
「だったら、もっと、平然としていろ」
「平然としているわよ。だけど、千万円と聞かされては、どんな女だって、ちょっとぐらい動揺すると思うわ」
「よせやい。みっともないぞ。僕を見ろ。月に二千円の貯蓄を心がけて、必死になっているんだぞ」
「それと、千万円とどういう関係があるの?」
「関係?」
 周三は、つまって、
「要するに、あいつは大金持ちで、僕は貧乏人だ、ということだ」
「お気の毒ね」
 杉子は、ニヤニヤしていった。
「放っておいてくれ」
 杉子は、ここで、
(そんなら、その四万円を早く返しなさい)
 と、いってやろうかと思ったのだが、それではあんまり可哀想な気がしたので、
「だいたい、喜多さんが、そんな話をあたしに聞かせるからいけないんだわ」
「かもしれぬ」
「どうして、聞かせたのよ」
「どうしてって、要するに、僕は、あの男が大きらいなんだ。それをいいたかったのだ」
「だったら、かえって、ヤブヘビじゃありませんか」
「すると、君は、あんな男に関心を持っているのか」
「当然でしょう?あたしのために千万円を出してもいい男性がいたなんて、一生の思い出になるわ」
「そうか、一生の思い出になるのか」
 周三は、ゆううつそうにいってから、目の前のダルマの貯金箱の中へ、百円玉を入れると、それを耳元で振って、
「もう七百円ぐらいにはなったかな」
 杉子は、そのときの周三の顔を思い出しながら、一方で、いまだに行方のわからぬ父親のことを思い出していた。

Tの感想・紹介

 「夢を失わず」は、1959年12月19日から60年6月21日まで朝日新聞に連載された新聞小説です。話のバランスが良く、表現も軽妙で、源氏鶏太の代表的佳編と言っても過言ではありません。テーマは「金」。お金の持つ魅力と魔力が与える影響を書いた作品といってよいと思います。げらげら笑えるような作品ではないのですが、明らかに人間喜劇といって良い作品です。

 主人公は22歳のOL、小高杉子。大塚工業に勤めていて給料が9800円。利殖に興味があって株をやり、120万円の財産を持っています。父親の修造は、人に使われるのが嫌いで自分で商売をしようとするのですが、商才がなく何度も失敗し、多額の借金を背負って、親戚に尻拭いさせるような人物です。母親の保子は、修造の兄が経営している小高商事の営業課長代理です。バリバリのキャリアウーマンみたいですが、収入の無い夫の代わりに義兄が採用してくれたものです。杉子はこういう家庭環境のなかで暮らしているので、どうしてもお金に敏感になるのでしょう。

 杉子に対応するヒーロー役が、杉子の同僚喜多周三。彼は28000円の給料を貰いながら、貯蓄の意識が全く無く、ふところは何時もピーピーしているという人物です。仕事は出きるのですが、雨の日の傘が無いと会社を欠勤するようなとぼけたところもあります。杉子に32000円の借金があり、後に40000円になります。大塚工業の社長・大塚吾助は、社員に対して「君たち貧乏人は幸せだよ」と言うような人物です。彼の頭痛の種は、長男の太郎です。太郎は学生ですが、毎月30000円ものお小遣いを貰いながらも、遊びに使ってしまい、家の財産を持ち出して金に替えるようなどら息子です。あるとき、渋谷のバーのホステス・広子が大塚邸を訪ねてきて、太郎の子を孕んだといいます。この問題を大塚の出したお金を上手く使って解決するのが周三です。このいきさつで、太郎と周三は仲良くなり、大塚は周三を信頼します。

 大塚工業のOLたちの多くも株による利殖に手を染めています。その指南役が花園です。花園は周三と同期入社ながら、仕事の評価は低く、25000円の給料しか貰っていません。しかし、その蓄財力はすごく、500万円の財産があるとも云われています。

 こう言った話の中で、大塚工業の株価がじりじりと値上がりしていきます。これは、周三の大学時代の同級生・宗武竜之介が、花園の情報によりし掛けた、株の買占めによるものです。宗武は、杉子に「千万円出してもいい」と言います。杉子はこの言葉にぐらっときますが、結局はなびくことはありません。その間、株式市場は暴落し、花園やOLたちは大損するのですが、大塚工業だけは株価が鰻登りになります。乗っ取り側と防戦側との激しい買占め合戦が続きます。乗っ取り側の黒幕は大阪のお金持ち舞台ですが、周三は舞台と直接交渉に成功し、手打ちとなります。

 以上が粗筋ですが、ディーテイルを見ますと対照的な人物がセットで描かれているところが分ります。まず、主人公の杉子に対しては同僚の恵子。杉子は、毎日新聞の証券欄を眺めて、株の売りかいをする蓄財術をやっていますが、反面「あたし夢がほしいわ、お金を貯めるだけではなしに、そのお金を活かす夢がほしいわ」と願うような娘です。一方恵子は、お金によって花園と結ばれ、株の大暴落で別れるというOLです。金の切れ目が縁の切れ目というところです。お金に対してドライです。周三と花園も対照的です。周三は、仕事は出きるけれども蓄財の意識が0の人物として描かれますが、花園は仕事は今一つだが蓄財の才能抜群の人物です。小高商事の社長と杉子の父親も、同じ資本から出発して成功したものと失敗したものという点で対照的です。大塚社長の二人の息子、太郎と次郎も対照的です。

 こういった金に対する感性の違う人物をセットにして示すことで、健全な金銭感覚と金に躍らさせる人間の詰まらなさとを源氏鶏太は描こうとしたのではないかと思います。

 映画化は1961年松竹による。タイトルが「サラリーマン手帳・夢を失わず」。7月26日封切り。斎藤正夫監督。椎名利男・渡辺臣蔵脚本。桑野みゆき、三上真一郎、佐野周二、山本豊三他の出演であった。

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