若い海

さわりの紹介

 「まア、宝部さんそういうことがあったんですか」
 好子は、気の毒そうにいった。自分に対して、何かと好意的に振るまってくれた宝部なのである。宝部なら黒野なんかと違って頼み甲斐のある青年だし、きっと周囲から祝福されるような結婚をするだろうと思っていたのであった。それがよりによって、そういう悪い条件の女を好きになっていたのだ。悪い条件といえば、
 (まだ、いくらかあたしの方がマシかもわからないわ)
 と、思いたかった。
 しかし、そう思ってみたところで、黒野から受けた傷がたやすく消える訳でなかった。ここへくる途中、武部から黒野のことを早く忘れてしまった方がいいといわれて、忘れかけていますと答えた。事実自分ではそのつもりであった。しかし、黒野を忘れたからといって、受けた傷の深さが消えるということには直接そう関係がないのである。尤も、それだって、今後、好子の前に現れるかも知れぬ男性次第かもわからぬのだ。好子は、さっき武部の言った、
 (こだわるか、こだわらぬかは、相手次第だと思うよ。僕は)
 と、いった言葉を思い出していた。
 そして、好子については、
 (まだ、そこまでも行っておりませんよ)
 と、突っ放すようにいったことも。
 好子にとって、暗い話を聞かされたことになる。せっかく招かれながら気が滅入ってくるようであった。それとなく武部の方を見た。武部もまた、考え込んでいるようだが、しかし、酒を飲むスピードをゆるめているのでもなかった。
 「僕は、宝部君について、一切の下駄を預けられているのだ。で、どうしたらいいかと思って、この際、君たち若い者の知恵を借りたかったのだよ。武部君、何か意見はないかね」
 「私なら宝部君にいってやりますね。すこしだらしがないぞ、と」
 「だらしがないぞ、だって?」
 浩太郎は、思いがけないことをいわれたように武部を見た。好子もまた、武部のいい過ぎとでもいいたげな顔になっていた。節子だけは、寧ろ武部の発言を面白がっているようであった。
 「いけませんかね、そんなふうにいったりしては」
 武部が応じた。
 「そういう意味ではなく、僕は、宝部君は宝部君なりに悩んでいるのだし、そこは若い者同士として、もっと同情的になってくれるかと思っていたんだよ」
 「勿論、大いに同情していますよ」
 「それでいて?」
 「しかし、宝部君は、自分の恋愛問題でどうして上役に泣きついたりしたんでしょうね。私には考えられないことですよ」
 「君なら、どうする?」
 「いのちがけでその女が好きになっているのなら略奪なり何なりして、さっさといっしょになってしまえばいいんじゃアないですか」
 「しかし、相手は、人の二号をしている女なんだよ」
 「かまわんじゃアありませんか、そんなこと」
 「こだわらぬ?」
 「こだわることがおかしいのではありませんか、宝部君の場合」
 「そういうもんだろうか」
 「私ならそうですよ」
 「しかし、そんなことをして、相手の男が黙っているだろうか」
 「そりゃア黙っていないでしょう。そうしたらそのときはそのときで堂堂と戦えばいいのではありませんか。だって、それでこそ、男というもんでしょう?」

Tの感想・紹介

「若い海」は、1965年7月12日より1966年7月18日まで、『報知新聞』に連載された長編小説。タイトルの「若い海」は、上述のさわりの2ページほど後に出てくる、アメリカのサンドバークという人の詩、『若い海』から来ている。
『海は若い
嵐が一つくればその白髪は消えてしまい
老齢を解き放つ
ぼくは海が豪放に笑っているのを聞く』(安藤一郎訳)

 テーマは処女性。源氏鶏太は初版本(1968年)の「あとがき」に以下のように書いています。
『この小説のテーマは若い男女の結婚するに当って、その過去をどう処理すべきかにあった。私は、若い男女が結婚の前に過去をつくることは絶対反対である。しかし、そうとわかりつつ過去をつくってしまう人が実に多いようだ。私はそういう人たちに、軽々しく過去をつくることの恐ろしさ、おろかさを知って貰いたかった。
 同時に、いったん過去をつくってしまった場合、どう処理したらいいだろうか、ということもいっしょに考えてみたかった。』
 登場する女性のほとんどは、過去を持つ女性です。三沢由香、松山好子、法川裕子、海藤清子、みな純潔を失って傷ついた女性です。これらの傷ついた女性たちが、精神的な再生をはかるためには、その過去をどう処理すればよいのか。新しい誠実な愛情で、過去を克服できるのか。それがテーマです。

 21世紀に入った今日、性に関する一般的感覚は35年前と比較してずうっとおおらかになっています。従って、今日の目で見れば、登場人物が何故あれほど悩まなければならないのかが良くわからない部分もあるかもしれません。しかし、結婚前の過去をどう清算すべきか、という問題は、21世紀になっても心情の中ではどう解決すべきか悩んでいる人もいるのではないかと思います。そういう人にとっては、一つのヒントになるかもしれません。

 主人公、三沢浩太郎は52歳。会社では取締役総務部長の地位にいる。その娘由香は、父親の一番嫌いなタイプの、父の部下、黒野喜重と結婚したいと言い出す。浩太郎は、しぶしぶ二人の婚約を許す。それは、黒野と由香とが実質的に結ばれていたからである。黒川は、女ぐせが悪く、常時複数の女と付き合っている。由香と婚約する前に、会社の同僚松山好子を捨てている。好子はそれがショックで会社を止めようとする。事情を知った浩太郎は、好子のために新しい就職先を紹介する。浩太郎は、自分の部下、宝部に恋人の海藤清子を紹介された時、お似合いのカップルだと思い、祝福する。でも海藤清子は、土建屋の二号をしている。

 本作品に出てくる若いカップルは、由香と黒野喜重、宝部と海藤清子、黒野に捨てられた松山好子と好子の新しい就職先の好青年武部。好子の弟・松山直昭と同僚に婚約を破棄された法川裕子がいます。この中で宝部と海藤清子は、浩太郎の婚約者の未亡人高原節子の活躍で結ばれ、好子と武部もうまく行きそうです。悪役・黒野は最後に新婚旅行先に妊娠した恋人武崎光子が現れ、由香に捨てられます。

 小説としては大団円。でも、明るい小説ではないと思います。スカットしない意欲作とでも言っておきましょう。 

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