艶めいた海

さわりの紹介

 矢沢周平は、二十七歳、独身のサラリーマンであった。幸いにして、女に不自由していない。その原因の一つとして、特別に美男子ではないが、しかし、顔に卑しさがなく、どっか愛嬌のようなものがあるのと、いつも身奇麗にしていることがあったかも知れない。それに気持に優しいところがある。周平自身、自分を女に冷たい男だとは思っていなかった。親切な方であろう。しかし、そのことと二人の女を同時に相手にすることとは無関係だと割切ることにしていた。でないと、せっかくの二十七歳の青春が灰色になるばかりでなく、結婚もしていないのに不自由で仕方がないということになってくる。

 今日は、土曜日である。周平の会社では、まだ土曜日の休日は、隔週にしか実行していなかった。そろそっろ退社時刻の午後五時になろうとしていた。

 周平は、今夜、日高美恵を抱いてもいいし、松永夏子のアパートに泊まってもいいとも思っていた。何れにしても明日は日曜日なのだし、おとなしく自分の部屋へ帰って寝ることはないのである。そんなことは勿体ないと思っていた。退屈を持て余すだけである。

 美恵にも夏子にもそれぞれのよさがあった。周平への扱い方にも違いがあった。共通しているところは、二人とも周平に惚れてくれていて(と、周平は思い込んでいるのだが)、お金を取りたがらないところであろう。尤も、周平の月給は、十万円そこそこに過ぎない。ただし、周平は、大学の露文をでているので、ロシヤ語が出来る。周平の友人の会社から頼まれて、ソ聯の学術の研究論文を翻訳してやることで、月に平均五万円ぐらいの副収入があった。だからといって、寝るたびに美恵や夏子にお金を気前よく渡していたのではたまったものでなかろう。美恵や夏子たちもそれを知っているに違いなかった。ここでもう一つ念のために書いておくと、美恵と夏子は、周平について、お互いの存在を知らない筈であった。そこらが周平のずるさであるというよりも利口さであったかも知れなかろう。

 周平は、ちょっと迷ったあげく、夏子とは十日ほど前に寝たが、美恵とはその前から寝ていなかったことに気がついた。
 (可哀そうに・・・・)
 こういう同情は、果して的を射ているのかどうか大いに疑問であろうが、しかし、それは赤の他人がヤキモチ半分にいうことであった。周平は、そう信じているのだ。

 周平は、電話器を取って、ダイヤルをまわした。
 「M車輛でございます」
 交換手が出ていった。M車輛もまた周平の会社とおなじく土曜日の休日は、隔週に実行していた。
 「こちらは矢沢ですが、総務課の日高美恵さんをお願いいたします」
しばらくたって、
 「はい」
と美恵の声が聞えて来た。
 「僕だよ」
 「ええ」
 「元気?」
 「でもありません」
 「どうしてなんだ」
 「だって、二週間もお電話下さらなかったでしょう?」

 その恨みがましいいい方は、周平にとって、悪い気持ちでなかった。それなら美恵の方で我慢出来なくなって誘いの電話をかけてくるのかというと、そういうことはめったになかった。いつだって、おとなしくじいっと待っている方であった。そういう女のようであった。その方を周平が喜ぶと知っているからのようであった。しかし、ここで妙に勘ぐれば、二十四歳の美恵には、周平の知らない秘密の世界が別にあるから、ということになるだろう。周平だって、それを時には感じぬでなかったが、しかし、口にしたことはなかった。聞けば、やっぱりこだわる気持がわいてくるかも知れない。とすれば、耳をおおっておいた方がいいのだ。その方が無難であることに間違いない。今のところ周平は、美恵との結婚は、全く考えていなかった。勿論、夏子とも。先のことはそのときになってみないとわからないが。しかし、周平は、今の二人との交渉は、自分の結婚まで、と思い込んでいた。尤も、そのうちに二人のうちのどっちかと本気になって結婚する気になれば、それはそのときのことである。今はただお互いに愉しんでいるのだと思っておきたかった。

Tの感想・紹介

 「艶めいた海」の初出は調べきれておりません。私が持っているのは、1978年6月に出版された角川文庫版。作品に出てくる週休二日制の施行状況や、主人公矢沢周平の給料から見て、1970年代前半に執筆された作品のように思います。

 源氏鶏太の作品は、その最も人気のあった1950年代、理想主義に基づいた勧善懲悪作品がその主流を占めていました。そこで主人公の快男児の相手となる恋人役は良家の子女と決まっており、勿論結婚まで処女を守る清純な美女でした。このような女性が、源氏鶏太にとって生涯の理想だったようで、晩年の作品にも、そういった女性を主要な役柄で登場させた例はいくつか指摘出来ます。

 一方で、現実の社会では、結婚まで処女を守る女性が減ってきたことがあり、時代の変化に敏感な風俗作家であった源氏は、女性の処女性を問題にする作品を1960年代以降幾つも発表していきました。源氏にとってのその極限がこの「艶めいた海」です。この作品の主要な登場人物は、主人公・矢沢周平、そして、周平の廻りに集まる女性たち。即ち、現在の恋人日高美恵と松永夏子、部長の姪で九州から上京して来た瀬戸淳子、かつての周平の恋人でお金持ちと結婚した山根裕子、バーで知り合った広岡弘子。それに重要な脇役として、平社員のまま会社を停年退職した深川昌吾がおります。

 結局周平とその廻りの五人の女性たちの内、周平は四人と関係を持ちます。周平はこれらの女性たちと遊びで付き合っておりますが、関係した女性たちと円満に別れて、彼女たちが幸福に生活することを望んでいます。しかし、したたかさでは、周平よりも女性たちが一歩上手のようです。周平が「両手に花」と洒落込んでいる日高美恵と松永夏子は、それぞれ津山英助、浅沼栄助と関係があるようです。山根裕子は、周平との付合いを隠して結婚しましたが、夫は浮気をしている様ですし、瀬戸淳子が上京した理由は、結婚相手探しではなく、亡くなった友達のかつての夫、津山英助を追って来たためです。また、広岡弘子は、自分につきまとっている牛飼健助と別れるために、周平を利用しようとします。

 周平は、これらの女性たちの本性を知ることにより、彼女たちと別れようとしますが、タイミングが悪く、これらの女性たちがほぼ一堂に会するという結果になります。その場においても、日高美恵と松永夏子、そして瀬戸淳子は自分と付き合う様にと迫ります。しかし、周平は、彼女たちとの縁を切ることを選びます。

 若き艶福家、矢沢周平の失恋を描くことで、源氏は「女性のしたたかさ」を明快に描いてみせました。源氏鶏太の処女性をテーマにした作品は、世の中が進み過ぎたため、現在では、その背景が理解されにくくなっている所が多々あります。しかし、「艶めいた海」は、書かれた当時は恐らく相当先鋭的な作品だったと思いますが、今になってみれば、「よくありがち」な通俗作品ということになるでしょう。

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