鶴亀先生

さわりの紹介

「おい、こら、畑中君ではないのか?」
 大きな声であった。
 畑中君は、ハッとして、声のほうを見た。そこに、三寸ほどの薄茶色のあごひげをたらした老人が立っていた。そのあごひげは、見る人の好みによっては、いやらしかったり、人品を悪くしたり、または、あいきょうがある、と感じられるだろう。しかし、老人は、古びたトランクをさげて、いばったような顔をしていた。それから、あいているほうの手であごひげをしごいて見せた。
「あッ、先生!」
「うん、やっぱり畑中君であったな。りっぱになったな、まるで、一人前の紳士だ」
 そういってから、先生は、うれしげに爆笑した。
「先生。よく、いらっしゃいました」
「うん、来てやったからな」
「そのあごひげは、すばらしいですね。東京にだって、めったにありません。うっかり、見違えるところでした。いつから、そんなひげ、はやされたんですか?」
「去年、学校をやめた記念にはやしたのだが、きみが、気に入ってくれたとは、うれしいぞ。こんどの上京は、さいさきがいいらしい」
「先生は、学校をやめられたんですか?」
「停年だ」
「ちっとも、知りませんでした」
「どうせ、そんなことだろうと思っていた。でも、別に、わしは、気を悪くせんからな。しかし、このトランクは、持ってくれるだろう?」
「うっかりしました」
「そうだ。さア、いこうではないか」
 ツルカメ先生は、先に立って歩きはじめた。なかなか、元気な気負った歩き方であった。千万年は、しょせん、無理な話としても、まだ、十年や二十年はだいじょうぶなようである。改札口を出ると、先生が振りかえっていった。
「ちと尋ねたいのだが、きみの月給日は、いつかね」
「おとといでした」
「おお、おお、それはますますよい日に来たことになる。きっと、まだ、金があるだろう?もちろん、そのはずだな。わしは、汽車の中からのどがかわいてならなかった。それをがまんしていた。ビールでも飲みに連れていってくれんか?」
「行きましょう。先生はお酒が好きでしたか?」
「なに、たいしたことはない。だから、何も心配するな」
 畑中君は、別に、心配はしていなかった。しかし、何も心配するな、と念を押されると、妙に心配になってくる。飲み屋ヘ行くと、先生は、よっぽどのどがかわいていたらしく、最初の大コップを一気に飲んでしまった。
「すまんが、もう、いっぱい」
「はい」
 畑中君は追加を頼んだ。
「そうだ、畑中君、わしを三、四日、きみンとこへ泊めてくれ」
「どうぞどうぞ、先生」
 畑中君は、もはや、観念していたのである。
「わしはな。畑中。今、塾を開いて、小学生たちの勉強を見てやっている。ところが、こんど、急に、わしの教え子たちが、その後、どうなっているか、見たくなったのだ。きみも知ってのとおり、わしは、体操を通じて、精神教育に重点を置いて来た。健全なる精神は、健全なる肉体に宿る主義を実行して来た。しかるに、戦後の世情は、まことに嘆かわしい。実に、言語道断である。その言語道断の世情の中に、わが教え子たちが、はたして、わしの教えを守り、実行し、りっぱにやっているかどうか、心配になって来たのである。わしは、わが教育の成果を見るために、上京の決心をした。本来、教育家たる者は、そこまでの責任観念がなければいかん。どうじゃ」
「ごもっともです。先生」
「すると、まず、わしが思い出したのは、きみのことである」
「光栄です、先生」
「まア、そうだな」
 しかし、先生は、それほど、光栄がるな、といいたげに、二杯目の大コップを飲みほした。畑中君は、追加を注文しないわけにはいかなかった。しかし、自分は、あしたの見合にふつか酔いの顔で行ってはまずい、と自重して、まだ一杯目を飲んでいた。
「すると、先生は、こんどの上京には、ぼくだけを見て、お帰りになるんですか?」
「いや。わしは、そんなもったいないまねはせん。たしか、東京には、まだ、すくなくとも五、六人はいるはずだから、次々にまわってやる方針だ」

Tの感想・紹介

 「鶴亀先生」は、1953年10月から12月まで「小説新潮」に連載された中篇小説です。源氏鶏太は痛快サラリーマン小説にその本領を発揮したと思われているのですが、サラリーマンの悲しみから始まるおかしみ、言いかえるならば、人生の一寸した悲哀を描くのが得意でした。

 「鶴亀先生」は、かつて田舎の中学校で体操教師をしていた鶴亀先生こと中林千万年先生が、自分の教育成果を確認するために上京し、かつての教え子たちを訪ねて歩くというのが筋です。鶴亀先生はお酒が好きで頑固者で一寸愛嬌がある人ですが、基本的に東京の社会を知りません。そういう外部の人から見ると、東京に馴染んでしまったかつての教え子たちは、先生の意とは異なった生活を送っているように見えます。そこで、先生はドン・キホーテとなり、行く家行く家に旋風を巻き起こすのです。

 最初に尋ねたのは、先生が停年退職に間近なころ教えた畑中君です。畑中君は翌日見会いと言うにもかかわらず先生に付き合わされ、あまつさえ、翌日はお見合の会場に先生がついて来てしまい、先生の直言で御見合は破談に終ります。次いで行った畑中君の先輩で、会社の課長である花好洋次郎さんは、先生と一緒に飲みに出掛け、バーのホステスとの浮気がばれてしまいます。その次の世田直助さんは、温泉マークのホテルを経営しているのですが、先生はそのホテルに泊まり、隣室のカップルと騒ぎを起こします。行くところ行くところに旋風を巻き起こします。

 しかし、先生はなかなか田舎に帰ろうとはしません。実は先生は奥さんと夫婦喧嘩をして家出していたというのです。先生の居所を知った奥さんは、先生の歓迎会をしていた教え子たちの部屋に現われ、つれて帰るというお話です。

 特別どうと言うことのない作品ですが、ずうずうしいけれども一寸優しい鶴亀先生のキャラクターが上手く描かれ、東京の風にあたってすれてしまった教え子たちとの比較が上手くできている作品です。

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