東京物語

さわりの紹介

 「赤ちゃん・・・・・」
 西部広志は、一瞬、自分の耳を疑った。聞き違えたのかと思った。全身の血がいっぺんに退いていくようであった。
 (赤ちゃんて、この女は、妊娠したというのであろうか)
 そんなバカな、と叫びたかった。が、同時に3か月前のあの屈辱の夜のことを思い出していた。あり得ぬことだ、とはいい切れないのだ。しかし、今日まで、そんなことを夢想もしないで来たのである。村田久子との縁は、あの夜で完全に切れたと思い込んでいた。過去の女として、それも忘れてしまいたいと努めて来たのだ。西部広志は、自分の前途が真っ暗になったような気がした。もう何も彼もが、めちゃめちゃである。西部広志は、そういう思いの底で、加古稲美を思い出した。加古稲美にすがりつきたがっている自分を知った。しかし、そういう思いは、却って、西部広志を絶望の底におとしいれていくだけであった。
 村田久子は、真っ青になっている西部広志をうわ目でちらっと見て、
 「そうよ、あなたの赤ちゃんが」
 と、ゆっくり、自分の言葉の効果をたしかめるようにいった。
 西部広志には、もう何んといっていいかわからなかった。
 「あたし、この間から、身体の調子がおかしいおかしいと思っていたのよ。でも、まさか、と思っていたの。だって、たったいっぺん切りだったでしょう?」
 「・・・・・・・」
 「ちょっと、考えられないことですものね」
 「・・・・・・・」
 「だけど、あんまり心配になるんで、昨日、お医者さんへ行って診て貰ったのよ」
 「・・・・・・・」
 「そうしたら、おめでとう、間違いありません、といわれたわ」
 「・・・・・・・」
 「3か月なんですって」
 「・・・・・・・」
 「あたし、西部ちゃんとは、あんな喧嘩別れのようなことになっているんだし、はじめ、困ったわ、と思ったのよ」
 「・・・・・・・」
 「でも、そのうちにだんだん嬉しくなって来たの。だって、西部ちゃんの子供を産めるなんて、考えるだけでも幸せがいっぱい」
 「・・・・・・・」
 「あたし、どうしても産むわ。西部ちゃんに似た可愛い可愛い赤ちゃんを」
 西部広志は、いぜんとして口が利けないでいる。が、村田久子には、そんな話はやめてくれといいたくなっていた。でなければ、両掌で耳をおおいたいくらいであった。が、西部広志は、かろうじてそれに堪えていた。そのことが西部広志のせめてもの意地であったろうか。
 「あたし、さっき、結婚してといった意味、やっとおわかりになったでしょう?」
 「・・・・・・・」
 「そりゃア西部ちゃんがあたしをあのときからお嫌いになったらしいことぐらい、わかっているつもりよ」
 「・・・・・・・」
 「だけど、こうなってしまったら、もう仕方がないでしょう?」
 「・・・・・・・」
 「あきらめて頂戴ね」
 「・・・・・・・」
 「あたし、そうなったら西部ちゃんを大事にするいい奥さんになってみせるわ」
 村田久子のいい方は、決して高圧的なのでなかった。寧ろ、哀願しているような口調なのである。しかし、そのことが却って西部広志にとって、真綿で首をしめられるような思いをさせられるのであった。勿論、村田久子は、それを計算に入れているに違いあるまい。以前からそういう女であったのだ。

作品の話

 「東京物語」は「家の光」に1966年6月号から翌67年8月号まで15回にわたり連載された長編小説です。単行本は67年10月に集英社から出版されました。

 1960年代の源氏鶏太は、物凄い売れっ子で、それこそプログラムピクチャーのように作品を量産して行きました。その作品の質は勿論ある水準には達しているのですが、同時に同工異曲のマンネリ化した作品も少なくありません。「東京物語」は、プログラムピクチャーのB級作品と言わざるを得ません。ありふれた話ながら現実にはあり得ないようなシチュエーションを、語り口の巧みさでリアリティを持たせるところは流石ですが、でもそこから脱却する新しさは感じられません。

 主人公は加古稲美、22歳。兵庫県播州平野にあるK町の農家に生まれました。地元の高校卒業後、東京の短大に進み、そのまま東京の会社に勤めています。両親との約束で、2年間のOL生活の後は、田舎に帰って適当な相手と見合して結婚することを予定していますが、彼女としては、東京で適当な相手を見つけて結婚したいと思っています。そんな彼女に突如として二人の求婚者が現われます。

 一人は、稲美の直属の課長・加賀が紹介してくれたB化学工業勤務の元木真二と、稲美と机を並べている同僚の西部広志が強く推薦する西部の同期入社の友人、竹中永二郎です。意外にも元木と西部は大学時代の親友でした。すなわち、西部を通じて元木・竹中がつながります。この二人は甲乙つけがたい好青年ですが、稲美には今一つ惹かれるものがなく、踏ん切りがつきません。それは、彼女は心の中で懸命に否定しようとするのですが、西部の稲美の心に占める部分がだんだん大きくなって行くことにあります。

 西部は仕事のよくできる好青年ですが、女子社員の間の評判は頗る悪いです。これは、彼が酒好きで女ぐせが悪いというものです。事実、彼の周辺には、性質の悪い女達が何人も出没しています。しかし、彼は、稲美と竹中とを会わせたころから、身辺の女性を整理し始めます。これは、彼の心の真中に稲美を置いてしまったからです。

 しかし、二人はお互いに自分の気持ちとは裏腹に、西部は、女性関係に問題のある自分よりも竹中や元木のほうが稲美にふさわしいと思い、稲美は、昔から西部を慕っている元木の妹・左千子との恋を成就させてやろうとおもいます。しかし、自分の気持ちと行動との矛盾に耐え切れなくなったとき、稲美は会社を辞めて、故郷に戻ってしまいます。そこに、稲美を追って西部が姿を現します。

 「恋は思案の外」と申しますが、東京物語は、源氏鶏太の「恋は思案の外」の一つの表現であります。加古稲美の表層は、源氏の他の作品でもおなじみの、「上品で且つ元気な中流家庭の子女」という線から外れていませんが、心理的な葛藤は類型的ではありません。魔性の女とも言えるでしょう。しかし、源氏鶏太は加古稲美の魔性の部分を描ききれていません。そこが源氏鶏太の良さであり、また限界であったのだろうとも思います。

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