掌の中の卵 

さわりの紹介

 「そう、お礼なのだ。三保子のような娘と結婚してやろうと思ってくれたことに対するお礼なのだ」
 「すると、僕たちの結婚を許して下さるんですか」
 「いや、許さぬ」
 「・・・・・・・・」
 「かりに僕が許しても、君のご両親の方でお許しにはならないだろう」
 「もし、僕の両親が許すといったらお許し下さるんですね」
 「そんなことは、万に一つも考えられぬが、しかし、その万に一つ、君のご両親がお許しになったとしても、僕は、許さない。絶対に許さない」
 「しかし、僕たちは」
 その武田勝一郎の言葉を封じるように、
 「まア、待ちたまえ。よけいなことはいわぬことだ。いえば、お互いの言葉に角が立ってくるだけだろう。僕は、そういうことが厭なのだ。避けたいのだ。このまま笑顔で別れたいのだ」
 と、矢代森太郎は、口調をおだやかにしていっておいて、
 「僕は、君に会わぬ方がよかったと思っている。君は、いい青年のようだ。そのことはこの武上君だって保証してくれているし、間違いないだろう。また、三保子が好きになったのも無理ではなかったといっておこう」
 「・・・・・・・・」
 「が、問題は、君が武田常務の息子であったということだ。それが君にとって不幸であったし、三保子にとっても不幸であった」
 「・・・・・・・・」
 「そして、僕にとっても」
 「・・・・・・・・」
 「僕は、娘の結婚については、娘の意志にまかせるつもりでいた。が、たった一つの例外は、武田常務の息子との結婚だけは、どんなことがあっても許すことが出来ぬということだった。どうか、悪く思わないで貰いたいのだ」
 「・・・・・・・・」
 「はっきりいうが、僕は、君のお父さんである武田常務を憎んでいる。武田常務だって、同じように僕を憎んでいる」
 「・・・・・・・・」
 「僕は、今だけでなしに、生きている限り武田常務を憎みつづけていこうと思っている。その理由は、あるいはすでに三保子から聞いてくれているかもわからないが」
 「聞いております」
 「そうか、それならあらためていう必要もない訳だな。僕のいうことは、どうも一方的のようで申し訳ないが、わかって貰いたいのだ」
 矢代森太郎は、努めて感情を殺していっていた。それだけに、却ってその決意の固さが武田勝一郎にも感じられたのでなかったろうか。武田勝一郎は、もう真っ青になっていた。絶望的にすらなりかけていたといいていいかもわからない。武田勝一郎は、救いを求めるように武上修介を見た。その武上修介の目は、
(自分のいいたいことはいうことだ)
 と、いっているようであった。

 

Tの感想・紹介

 「掌の中の卵」は、1967年5月12日から1968年5月14日まで、「読売新聞」夕刊に連載された新聞小説で、単行本は新潮社より出版されました。源氏鶏太は、新聞、週刊誌、月刊誌の活字メディアに作品を発表しましたが、新聞に発表した作品に作品としてのレベルが高いものが多いのですが、本篇もそのひとつです。設定に若干の無理があるのですが、全体として見れば、中々の傑作です。

 K化学工業株式会社に同期で入社した二人、矢代と武田の二人。矢代は、重役の娘との縁談を断って、バーに勤めていた女給と結婚します。武田はその重役の娘と結婚します。それから30年が経ち、矢代は平社員のまま停年退職し、武田は常務取締役まで昇進します。このような差がついたのは、武田にはバックに重役がついていたことと、武田が、矢代の出世をことある毎に邪魔をしたためです。

 このため、矢代は武田を生涯許すまいと考えています。一方、武田も同期入社といえども常務である自分に対して、頭を下げようとしない矢代を嫌っています。お互いが不倶戴天の敵のようです。ところが、この二人の息子と娘が、親同士の関係を知らずに、恋愛に陥ります。まるでロミオとジュリエットのようです。この両者の親は、当然ながらあくまでも子供達の関係を許そうとはしません。両家は結局最後まで和解することはなく、確執しつづけるのですが、その中で若い二人がどのように愛をはぐくんでいくのかが、この小説の主たるストーリーです。

 この二人の恋愛に協力するのが、矢代の同僚で、武田の息子、勝一郎の学生時代の先輩武上修介です。武上は、矢代の処遇に同情を感じ、また矢代を好いているのですが、こと若い二人の恋愛については、矢代や上司に当る武田常務の意向に反して、恋愛の成就のために助力を惜しみません。結果として、二人の恋は成就して大団円の形にはなるのですが、これはあくまでも小説の解決手段であります。

 この作品の眼目は、お互い徹底して嫌いあっている矢代と武田の関係です。特に矢代のされてきた仕打ちは、武田を決して許すまいと考えるのは、当然のように思います。また、実際のサラリーマン社会の中でも、ここまで極端ではないにしても、同期の足の引っ張りあいによって、出世が妨げられる例はよく見られることです。源氏鶏太は、かつては勧善懲悪のスタイルを明確にして、善は勝つ、という作品を多く書いていました。本篇も、矢代を善、武田を悪、という形にはしていますが、本当のところ、作者の描きたかったところは、矢代の怨みを描くことによって、世間によくありがちな、出世競争の敗者の頑なさを示すことにあったように思います。

 昭和40年代の源氏鶏太は、それまでの明朗サラリーマン小説から、晩年の幽霊ものに至る過渡期にありました。この作品は晩年の幽霊ものほど徹底はしていませんが、サラリーマンの敗者である矢代の怨みと、矢代を敗者にした武田常務もまた、専務にはなれずに関係会社の社長に転出するというかたちで、敗北する、という形で、負の溜飲の下げ方を示しています。この同期入社の二人は、ある意味では救いがありません。

 繰り返しますが、本質の物語は、両家の親の反対にもめげず、愛を成就させる若者の話ですが、その影に潜む、親同士のサラリーマンとしての確執が、この作品で源氏鶏太が書きたかった主題の様に思います。

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