天下泰平

さわりの紹介

「どうだった?」と、杉村洋介が、言った。
「五万株の株券を、テーブルの上においたら、キョッとしたような顔をしていました」
 と、答えたのは、東洋電機へ名義書換にいった、志田と言う社員であった。
「五万株ぐらいで、ギョッとするとは、気のちいさい連中だな。この次は、十万株、持っていってやろう。すると、ひっくり返るかも知れん」
「株主名簿を見せてほしい、と言ったら、急に、あわて出しましてね。すぐ、別室へ通して、紅茶を出すやら、ケーキを出すやら、たいへんなんです」
「いい気持だったろう?」
「ええ、ちょっと」と、志田は、笑って見せて、
「でも、なかなか、株主名簿を見せてくれないんですよ。目下、整理中だから、二、三日、待ってくれ、と言うんです」
「どうした?」
「整理中でもいいから、見せてもらいたい、と威張ってやりました。すると、一時間ほど、待ってくれ、と言うんです」
 横から、立春大吉が、口をいれた。
「誰が、応対した?」
「はじめ、株式課長でしたが、あとで、野田総務部長が現われ、最後に、佐川社長が出て来ました」
「じゃア、オールスターキャストだな」
「佐川社長は、私が、わざわざ、大阪からやって来た、と思い込んでいるんですよ。今夜のお宿がきまっているのか、と言ったり、お近づきに、お食事を差し上げたいのだが、と言ったり、みんな、ことわると、いかにも残念そうな顔をしていましたが、そのうちに、杉村商事と言う会社を、ご存知ですか、と言いました」
「やっぱり、気にしているんだな」
「で、私は、言ってやりました。そんな会社の名、聞いたことありません」
「よしよし」
「ついでに、私が知らんような会社なら、どうせ、インチキ会社でしょうね、と言ってやりました」
「こいつ、インチキ会社とは、なんだ。馘にするぞ」
「だって佐川社長も、そうですよ、と言っていましたよ」
「よし、佐川も馘だ」
 そう言ってから、杉村が、
「大吉の名を聞かなかったか」
「いいえ」
「そうか。トンマ野郎たちだ。で、株主名簿を写してきたのか」
「ええ、明日も、朝から、行ってきます」
「頼む」
 志田が部屋から出ていくと、いれかわりに、由比子が、入ってきた。
「はい、一万株よ」
「凄いぞ。いくらだい?」
「今日の相場は、百十八円だけど、あたしの元値は、百二十三円よ。だから、百二十四円でどうお?」
「相変らず、ちゃっかりしているぞ」
「そうよ。それからね、兄が、今のうちに、どんどん、買っておいた方が、いいかも知れない、ですって」
「そうか、ありがとう」
 そう言って、杉村が、由比子の持ってきた株券の裏を見ると、一万株とも、旧持主は、明治証券であった。大吉が、
「やっぱり、大和が、逆テをつかって売りに出たんだな」
「俺たちにとっては、天祐であったよ。でなかったら、今頃は、手をあげていたかも知れない」
「冗談じゃアない。ここで手をあげて、たまるもんか」
「いったい、由比子さんの一万株をいれて、いくらになったんだ」
「四十五万八千五百株だ」
「資金の残は?」
「二千万円だよ」
「すると、二千万円で、あと何株、買うことが出来るかが、運命の岐れ道か」
「十五万株、どうだ?」
「それを加えても、六十万株だよ。やっと、三十パーセント弱だな。大吉、こいつは、うっかりすると、とんでもないことになるぞ」
「いや、心配するなって」
「心配するなって、何か、成算でもあるのか」
「ない」と、大吉は、落ち着き払って、言った。
 しかし、そのとき、大吉は、心の中で、すこしも、落ちついていなかったのである。資金的に、こうなることは、はじめから、分かっていたことだ。寧ろ、凡そ、五千万円でよくも、四十五万株が集められた、とさえ思っていた。
 大吉は、六十万株では、勝味がない、としても、八十万株あったら、勝てる、と信じていた。したがって、あと、二千万円が、勝負と言うことになるが、しかし、四十五万株の現物も、そのまま、寝かしておく、と言うテはないのである。これをタンポにして、借金することである。誰に、と言うアテはなかった。が、そのとき、大吉は、なんとなく、大阪の高利貸鬼山重平を思い出していた。
 更に、大吉は、矢瀬工業の出かたを心配していた。その矢瀬工業が、もし、このままで、大和機械側についたら、絶対に勝味はないかも知れない。
 大吉は、由比子の横顔を見つめた。成熟しきったその横顔には、聖子にない美しさがあった。彼は、由比子が、自分を愛していることを知っていた。知っているだけに、今日まで、二人っきりになることを、出来るだけ、避けてきたのであった。
 ふっと、由比子は、顔をあげて、大吉の眼に気がついた。
(どうなさったの?)
 と、言う顔をしてみせたが、いかにも嬉しそうだ。
(いや)
 と、大吉は、立ち上った。
 彼は、直平の胸像の前に行った。じいっと見つめていると、昔、直平の秘書をしてきたときのことが、しきりと、思い出されてくるのであった。

Tの感想・紹介

 「天下泰平」は、1954年1月24日号から1955年1月16日号まで、「週刊朝日」(朝日新聞社)に連載された長編小説です。単行本は1955年に朝日新聞社から出版されました。

 正義感にあふれる快男児を主人公にして、艱難辛苦に堪えながら、最後には勝つ、というストーリーを、源氏鶏太はいくつも発表していますが、長編小説で、そのようなスタイルをはじめたのは1952年に発表した「坊ちゃん社員」がその嚆矢であり、そのスタイルを確立したのが、この「天下泰平」です。源氏の出世作である「三等重役」と同じ週刊誌連載作品であり、当時、扇谷正造編集長の下で、日本一の週刊誌として出版界に君臨していた週刊朝日への連載小説だったこともあり、かなり精力を傾けて執筆したのでしょう。作品として非常に緊密に書かれています。

 週刊朝日は、1953年頃約30万部の発行部数だとされていますが、「天下泰平」が連載中の1954年9月には百万部を突破しました。この販売部数の急増は、第一に扇谷正造編集長の卓越した手腕にあったことは言うまでもありませんが、この「天下泰平」の連載が、部数昂進に大きく役立ったと言われています。それだけ、読者の支持の大きな作品でした。

 主人公は立春大吉。このネーミングからも分かるように、源氏は、「天下泰平」を今年一年元気で生きられるような「初夢」になればよいと考えて、この作品を書いたのでしょう。

 昭和23年、4年ぶりにシベリア抑留から帰ったばかりの、立春大吉は、出征前の自分の会社「森製作所」が、社名も「東洋電機」に変わってしまっていることに、驚きました。これは、第二次世界大戦中の、戦争貫徹のための企業合同の結果ではあったのですが、その実態は、大和機械の副社長、岡崎才助による会社乗っ取り策でした。その結果、森製作所の二代目社長である森信吾は、今は総務部次長というところまで降格され、森系の社員は、一部のごますり社員以外は、部屋の片隅に追いやられていました。

 実態を知った大吉は、正義感を爆発させ、人事の公平と森元社長のために立ちあがります。大吉を応援するのは、戦争中、大吉と一緒に社長秘書として信吾に仕え、今は、現社長の赤座社長の秘書として働く、日高聖子です。聖子は、大吉に対する強い恋愛感情がありますが、大吉は、出征前に付き合っていたが、その後森系社員でありながら、大和機械から送り込まれてきた社員たちにすり寄っている柳川徳助の妻に恵子のことが忘れられず、聖子の気持を受け止めきれません。

 大吉はこの合併、実態は乗っ取りの黒幕である、岡崎と対抗するため、組合を動かし、証券処理調整委員会から放出される、東洋電機株を従業員が購入して、親会社である大和機械に対抗しようと考えます。しかし、それは会社側の切り崩しに会って見事に失敗し、大吉は会社から去ることになります。

 三年後、大吉は親友の杉村洋介と共に、再度上京します。その間、大吉は杉村と闇屋稼業で儲けた金を数千万蓄財していました。一方、東洋電機も増資により、資本金一億円の大企業になっています。杉村は闇屋から足を洗い、杉村商事と設立し、社長となっています。順風満帆の東洋電機に対し、大吉は乗っ取りを挑みます。

 それからまた紆余曲折があり、最終的に、大吉たちはこの株買い占め戦に勝利し、東洋電機は、杉村や若手の資本家によって経営されていくことになります。乗っ取りの中心人物となった大吉と、森製作所の元社長、森信吾は、会社経営から手を引きます。

 タイトルの「天下泰平」は、全てが終わり、新生「東洋電機」が出発した後の会社の運動会の日、森信吾と立春大吉は、東品川の静かな海を見つめています。そこで、信吾が言う言葉「天下泰平だよ」に依っています。森製作所から東洋電機ななり、大和機械の傘下から抜けだすまで、森信吾にとって、天下泰平の日々は無かったわけですが、全て終われば、天下泰平になる。

 立春大吉と天下泰平。そこに、この作品を描いた源氏の心象風景があると思います。

 映画化は、1955年、東宝にて。監督 杉江敏男、製作 堀江史朗、脚色 八田尚之、出演者は、立春大吉:三船敏郎、日高聖子:久慈あさみ、杉村洋介:佐野周二、森信吾:笠智衆、 岡崎才助:見明凡太朗、 赤座社長:上田吉二郎、矢瀬由比子:寿美花代といった面々でした。

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