天上天下

さわりの紹介

 やっと扉の外に足音が聞こえて、田崎副所長は、着流し姿で入って来た。天満太郎は、立ちあがった。
「待たせたな。」
 田崎副所長は、そこまでいってから、
「婆やもいっていたのだが、その大袈裟なホータイは、いったいどうしたのだ。」
「喧嘩・・・・・。」
「喧嘩?」
「の、真似事をして来たのです。」
「何んのことやらよくわからんが、まァ腰を降せ。」
「はい。」
 天満太郎は、腰を降した。田崎副所長は、早速自分でウイスキーの水割りをつくりながら、
「君も遠慮なくもっと飲んでくれたまえ。」
「頂きます。」
「しかし、あんまり飲んで、その傷にさわるようだったらほどほどにしておくことだな。」
「このホータイは、見せかけだけなのです。本当は、無傷なのです。」
「で、さっき、喧嘩の真似事といったのか。」
「はい。」
「それにしても、どうしてそんなバカな真似をしたのだ。」
「バー”鐘馗”のマダムの指図なのです。」
「よくわからんな。」
「聞いて頂けますか。」
「聞こう。」
 天満太郎は、今夜、駅へ大泉伍助を見送りに行き、その帰り、バー「鐘馗」に立ち寄ったことからついに江尻川の堤防の上へ行き、あわやというときにマダムが現われて、こんなホータイを巻かせられたときまでの経緯を話した。が、田崎副所長は、別におどろいたようでもなく聞いていた。といって、退屈しているのでないこともたしかであった。盛んにウイスキーを飲んでいる。
「で、帰ろうとしたらマダムが私に、今夜のことは、今夜のうちに副所長に報告しておいた方がよくってよ、と耳打ちしたのです。」
「何故?」
「私も、そう聞き返したら、あなたのために、とだけいったのです。」
「君のために?」
「はい。」
「君に、その意味がわかったのか。」
「わかりません。」
「そうか、わからないか。とすれば、僕にもわかる筈がないな。」
 しかし、田崎副所長は、そのことで別にこだわっているようではなかった。あるいは、自分なりに何か納得するものがあったのであろうか。
「で、他の連中は?」
「バー”鐘馗”へ戻って、今頃は、今井倉庫課長を囲んで、大いに祝盃を上げているかもわかりません。」
「しかし、そんなの、祝盃といえるかな。」
「すくなくとも私たちは、本当の喧嘩をしていないのですから。」
「すると、いちばんのバカ者は、今井ということになるのか。」
「さァ・・・・。」
「そう。そいうことに君は、軽々しく同調してはいかん。しかし、もっと飲んでいいぞ。君だって、祝盃ぐらい上げたかったんだろう?」
「それよりも私が気になるのは、マダムが私をここへよこした理由です。」
「深く考えぬことだ。君に、もっとタダ酒を飲ましてやりたかっただけだろう。そういう女なのだ、あれは。そして、あの女、相変らず君に好意を寄せている。」
「困ります。」
「僕だって、困る。しかし、僕は、そのことでは心配しとらんぞ。何故なら、君を信用しているからだ。」
「有りがとうございます。そのお言葉を聞いただけでも、今夜はここへ来た甲斐があったような気がします。」
「僕にも、ますます、君という人間がわかって来た。」

Tの感想・紹介

 「天上天下」は、1966年5月29日号から1967年5月7日号まで、ほぼ一年間に渡って「週刊明星」(集英社)に連載された長編小説です。源氏鶏太は、快男児を主人公にして、悪役の陰謀を打ち破る、完全懲悪型のユーモア小説を「坊ちゃん社員」以来数多く書いて来ているが、この「天上天下」もその系列に属する作品です。1950年代から60年代前半は、源氏の流行作家として最も華やかな時期でしたが、その盛りが過ぎた1960年代後半になると、次への脱皮を試みたいろいろな作品の発表を行っています。その多くは必ずしも成功したとは言えないのですが、そういう時期でも、彼のお家芸ともいえる完全懲悪型サラリーマン小説を書かせると、類型的で同工異曲ではありますが、安心して読めるまとまりがあります。

 主人公の天満太郎(ちなみに、源氏は「天上天下」のような戯画的痛快作品の主人公の名前をしばしば「太郎」としています。○○太郎としたとき、その主人公が正義漢の快男児と決まっているようです)は、東京に本社のある大東亜工業株式会社の平社員28歳、独身。二年前に三年の期限付で四国のM工場に転勤して来ました。彼は東京に、同僚である河原妙子という彼女を、四国から戻ったら結婚するという約束で置いてきたのですが、東京から出張してきた親友・大泉伍助の話によると、妙子は会社を辞めて新宿にバー「妙子」のマダムとして納まっている、そして、そのパトロンが太郎を転勤させた元上司・有賀総務部長であるということでした。 また、伍助は、会社が、今社長派と副社長派と派閥争いで大変で、有賀が副社長派のホープであることを教えてくれました。

 日頃は他人の悪口を言ったり、愚痴をこぼしたりしない太郎ですが、妙子の裏切りに落胆し、バー「鐘馗」において、自棄酒の末、愚痴をこぼし、マダムの部屋に泊まることになります。ところが、いざという段になって、マダムのパトロンがやってきました。そのパトロンこそが、かねてから好きな上役と思っていた工場の田崎副所長でした。結局太郎はマダムの所から逃げ出すのですが、これを機に、社長派と目される田崎と太郎は盟友関係になります。

 田崎は社長派と周囲からは思われていますが、派閥争いを続けることが会社の不利益になるといって、自分は陰謀派であるといいます。一方、社内で派閥争いにうつつを抜かしている時に、社外大資本は、大東亜工業の乗っ取りを企て、財界の黒幕を任じている宮崎昇平や勝本台造がその尖兵となって、株の買占めに動きます。これを知った田崎と天満太郎は、この動きを止めようと働き、その資金源であった極東工業が手を引くことになります。そして、乗っ取り一派と手を組んでいた有賀総務部長や副社長派の実態が暴露されて、会社の危機を乗りきることができるのでした。

 芸能週刊誌に連載されたこともあって、いわゆるビジネス社会の小説でありながら、登場する女性も華やかです。バーのマダムと天満太郎を慕う良家の子女・宮島昭子、親友・大泉伍助の彼女でありながら太郎に惹かれていく宮崎典子、ミステリアスな美女・麻理子。このミステリアスな麻理子こそが、太郎のお助け役となって、乗っ取りの阻止に貢献します。

 明らかに類似品がある作品ですし、プロがつぼを押さえて書いた為に、小説自身のパワーで作家の期待を越えてしまうような部分はないのですが、時間つぶしの読みものとしては、とても有効な作品であると思います。

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