女の顔

さわりの紹介

「恋人・・・・」
「そう、恋人なのだ」
 深沢十郎は、押し返すようにいって来た。
 杏子は、ためらっていた。五島五郎のことをいうべきかどうか。しかし、その前に、五島五郎が果して自分にとって真に恋人といえるかどうかを考えてみる必要がありそうだ。五島五郎の方で杏子を恋人と思ってくれていることは、先ず間違いなかろう。うぬ惚れでなしにそう思ってもよさそうである。
(でも、あたしは・・・・・)
 そこに問題がある。五島五郎を自分の恋人と決めてしまうには、何かが不足している。その何かがの正体は、まだ不明である。が、あんなにも反対しているバー勤めを今後も続けていこうとしているのは、五島五郎をそれ程に好きでないから、といえるかもわからない。真の恋人なら多少不満があっても、五島五郎の言葉にしたがったであろう。しかし、その癖、杏子は、五島五郎に叱られることにある喜びを感じているし、また、失いたくなかった。他の女にも奪われたくなかった。彼を好きになっている仲部幸子といっしょに歩いているところでも見せつけられたら、きっと嫉妬を感じるに違いないのである。ということは、やっぱり、好きなのだ。しかし、恋人と決めてしまう気にもなれなかった。そう、決めてしまうには、目前の深沢十郎の存在が目ざわりになって仕方がないのである。
 といって、深沢十郎が杏子の恋人でないこともたしかなようだ。ただし、深沢十郎には唇を奪われている。何でもないことかもわからない。殊に、その経緯は、まるで盗人に合ったようなものなのだから。しかし、今や、杏子の胸の中に、経緯はどうあれ、深沢十郎と唇を接したということが、何か重大なことのように思われているのだった。その接吻のために、会社から、正式にアルバイトの許可を取るような人騒がせな真似までしたのだ。そして、あの日以来、深沢十郎の出現を心待ちにしていたのだ。あるいは、今の杏子の心の中では、五島五郎より深沢十郎の比重の方が遥かに重いのではなかったろうか。しかし、そうとわかっていても、五島五郎を失ってしまうのは惜しいのである。
(あたしって、よくよく欲張りなのかしら?)
 そう思いたくなっていた。しかし、かりにそうであっても、一向にかまわないではないか、とも。それが本心であったら、それにしたがって、今後そういう生き方をしていけばいいのである。
 が、それはそれとして、この際、深沢十郎に五島五郎のことをいうべきかどうか、ということの方が先決問題であったろう。深沢十郎の歓心を買うためには、いわないに越したことはない筈である。すくなくとも、その方が深沢十郎の杏子への気持を気楽にするに違いない。しかし、案外、逆に場合だって考えられるのである。
 黙り込んでいる杏子に、
「どうやら、あるらしいね」
 と、深沢十郎がいった。
 その唇許に、図星だろう、といいたげな微笑が見えていた。それを見たとき、杏子の決心がついた。これまた微笑を浮かべながら、
「ない、と思ってらっしゃいましたの?」
「いや・・・・。しかし、ない、といってくれた方が安心だったろうな」
「どうしてですの?」
「誘惑しても、それだけ良心の咎めがいらないから」
「誘惑して下さるおつもりでしたの?」
「あるいは、そのうちに、そういう気になるかも、と思っていたのだ」
「でも、あたしがやすやすとその手にのるとは決っていないでしょう?」
「しかし、女にかけては、これでもちょっとは自信があるのだ」
「だったら、ためしに、どうぞ」
 杏子は、自分でも大胆に過ぎる発言のような気がしていた。しかし、後悔していなかった。ある期待のようなものが胸底に動いていた。

作品の話

 「女の顔」は「小説新潮」(新潮社)の1965年2月号から翌66年1月号まで連載された長編小説です。一種の三角関係を描いた作品ですが、「ヒロインを取り合う二人の男」の小説ではなく、ヒロインと彼女に追われる男と彼女を追う男の三角関係を描いた作品です。

 ヒロイン影山杏子22歳は、会社でOLをしています。両親は既になく、姉が一人いて、銀座でバー「H」を経営しています。杏子はこれまで、姉のバーのカウンターで裏方の手伝いをして来ました。彼女は「人生勉強のため」と称して、会社の勤めを続けながら、アルバイトとしてバーのホステスをやることを会社に認めさせようとします。課長の加賀は大いに渋りますが、部長の永田はこれを認めます。永田が認めた訳は、姉のパトロンが永田である、ということが大きく関係しているようです。

 杏子がホステスをやろうと思ったのは、実は社会勉強と云うより、あるとき、路地で突然彼女の唇を奪った深沢十郎に再会したかったためです。深沢十郎は小さな商事会社の社長で、奥さんは既に亡くなっており、10歳の娘と暮しています。しかし女性関係は多彩で、三人の決った愛人がおります。杏子は深沢のその雰囲気に強く惹かれます。一方、深沢も杏子と知り合ってから、三人の愛人を次々と切って行きます。しかし、深沢は杏子と結婚しようとはしません。

 杏子を愛しているのは、会社の同僚五島五郎です。五郎は、杏子にホステスなどせずに自分と結婚しようと言いますが、杏子は、深沢に対する思いが断ち切れず、五郎の誠意ある態度に感謝しながらも心は傾きません。

 一方の深沢は事業に失敗し、金策のために大阪に向かいます。彼を追う杏子。そして杏子を追う五郎。大阪で相対する三人。結局深沢は、杏子と五郎とが結婚すべきだと言い、杏子は五郎を拒否し、五郎もまた、杏子に対する熱病のような思いが無くなります。

 源氏鶏太が描こうとしたのは、女性の恋愛感情の揺れであったようです。小悪魔的魅力を持つ杏子という女性がプレイボーイ敵中年と純真な青年の間を揺れ動く。その揺れは、男性を翻弄せずにはいられないもののようです。しかし、作者の目はその揺れによって翻弄される男性の姿を中心に描くのではなく、あくまでも杏子の心理に注目し、分析し、描写するところに特徴があります。しかし、作者の心理描写が十分かと言えば、私には非常に形式的だと思います。杏子の心の揺れが、杏子自身の痛みとして表出されていない。そこがこの作品の限界なのだろうと思います。

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