実は熟したり

さわりの紹介

 五郎は、前方を見たままで、黙っていた。
 「お願い、あたしと結婚して」
 しのぶは、重ねていうと、五郎の前にまわり、その顔を見上げた。
 (たった一言、よろしい、といえば、俺は、このしのぶと結婚出来るのだ!)
 しかし、五郎は、実際には、その反対のことをいっていた。
 「いけないよ、そんなこと」
 五郎は、いってしまってから、愕然としていた。どうして、拒絶したのかわからなかった。しかし、拒絶したことには、間違いないのである。すると、この場合、拒絶することこそ、最も当を得た答えであったように思われてくるのであった。とんでもないことをいってしまった、という思いもないではなかった。が、今は、いったん、口に出した言葉を訂正しようとは思わなかった。
 「お願い、あたしと結婚して」
 「君には・・・・」
 「あたしと結婚して」
 五郎は、頭を横に振った。が、しのぶの顔をみていなかった。
 「あたし、いつでも、五郎さんが、一番好きだったわ」
 五郎は、その一番という言葉に、よろめきかけた。そして、自分も、そうであった、といいかけた。しかし、危く、それを踏み止まった。
 「帰ろう」
 「あたしと結婚して」
 「早く、帰らないと、お父さんやお母さんが心配されるよ」
 「あたしと結婚して」
 「送ってやろうか」
 「ねえ、ダメなの?こんなにお願いしても、あたしでは、ダメなの?」
 「・・・・・・・」
 「やっぱり、水上さんでないと、いけないの?」
 「俺は、あの女とは結婚しない」
 「だったら、五郎さん!」
 いったんは、絶望的になりかけていたしのぶの口調に、弾みが出て来た。
 「君は、堀田君と結婚したら、きっと、幸せになれる」
 「なれないわ」
 「いや、なれる。俺が、保証する」
 「あたし、そんな保証なんか、してほしくないの。五郎さんと結婚したいのよ」
 「帰ろう」
 「そう・・・・」
 しのぶは、はじめて、五郎から視線をはなして、あらぬ方を見た。そのままの姿勢で、じいっとしていた。五郎の心の中に、今が、最後のチャンスなのだ、という思いがあった。もう一押し、しのぶが押して来たら、どうにもならなくなりそうな気がしていた。しかし、しのぶは、最後の一押しを押すかわりに、
 「さようなら、五郎さん」
 と踵を返して、歩きはじめた。
 五郎は、その後を追おうとした。しのぶへの、いじらしさが込み上げてくる。しかし、五郎は、追わなかった。しのぶは、そのうしろ姿に、その肩に、無限の悲しみを背負っているように見えた。
 (しかし、俺だって、無限の悲しみを背負って生きてゆくのだよ。そして、人間は、誰だって・・・・・)
 雨は、次第に、本降りになってきた。

Tの感想・紹介

 「実は熟したり」は、1958年12月12日より翌年6月21日にかけて「読売新聞」に連載された長編小説。源氏鶏太は、流行作家として、新聞、週刊誌、月刊誌、のいづれにも多数の連載小説を書いたのですが、一番出来の良い作品が揃っているのが新聞小説です。この「実は熟したり」も、内容は、源氏鶏太の持っていた引出しの中身の組み合わせの範疇からは出ていないのですが、作品の仕上がりは一級品です。

 主人公は23歳のOL高庭しのぶ。家庭は、一流会社の重役を勤めている父親と母親、それに兄の四人家族で、「高庭家は、今のところ、世間から幸福な家庭の代表のように眺められていた」、と書かれます。即ち、しのぶは、源氏鶏太の女性が主人公となる作品によく見られる、「中流階級の良家の子女」という典型です。明朗で活発、自分の見合いした男性が、自分に適当でないと思えば、それにふさわしい友人に廻してやるというような行為を、無邪気な善意でするような娘です。

 しのぶは、松戸光雄という顔立ちの非常に整った青年と見合いをしますが、彼女は、この青年が気に入りません。彼女には昔、兄弟同様にして育った日向五郎がいるからです。彼女は、はじめ五郎に対する恋心に気づきません。日向五郎は35歳のグラフィック・デザイナーで、ひとつひとつの道具立てが馬鹿でかい顔立ちの男です。彼は、しのぶが自分を慕っているのに気付いた時、自分もまた彼女を愛していたことに気付くのです。

 しかし、五郎にはその時既に結婚しようと決めた相手がいました。その女は、水上みどりといって、彼のために自殺しようとまで思ったというのです。でもそれはウソで、五郎の同業の明石という男に棄てられたのです。その腹いせに五郎と婚約するのですが、婚約後も明石と関係を持ちます。五郎は、婚約後それまで自分が世話をしていた愛人達と別れて身辺を綺麗にしていくなどしてみどりとの結婚に備えるのですが、結局、これがばれて五郎は婚約を破棄します。

 しかし、五郎はしのぶと結婚することを拒みます。しのぶには、彼女を恋うる堀田という好青年がいます。五郎は自分よりも堀田のほうがしのぶにふさわしいと考えるからです。

 源氏鶏太は、しばしば「坊ちゃん」タイプの青年を登場させて、活躍させますが、本編の男子側の主人公である日向五郎は、正義漢ではありますが、坊ちゃん的な直情径行の青年ではありません。もちろん、一種の男子の理想像ではありますが、むしろ屈折している部分が多い人だと思います。そういう人物をヒーローにもち、一方でヒロインしのぶの成長を描いたことに、この作品の味わいが出ていると思います。

 さて、風俗小説としての本作品の位置ですが、この作品が書かれた時代が、昭和33年です。しのぶはそのとき23歳ですから、昭和10年生まれということになります。五郎は大正13年生まれです。すなわち、この作品の主な登場人物は、子供時代戦争を経験した人達です。勿論、作者はあからさまにそんなことは書きません。でも、五郎の両親は早く亡くなっている、であるとか、しのぶの兄、孝太郎が結婚する相手の信子は、母親と二人暮しという設定を持ってくることは、時代にまだ戦争の爪跡が残っていることが、当時の人達にとっては自明だったのだな、ということを最後に付け加えて置きます。

映画化

映画は、大映(東京撮影所)で制作。1959年9月に封切られた。製作:武田一義 監督:田中重雄、脚本:白坂依志夫、撮影:高橋通夫、音楽:北村和夫、美術:後藤岱二郎で、出演者は、若尾文子、見明凡太郎、村瀬幸子、田宮二郎、川崎敬三、三宅川和子、金田一敦子、友田輝、他でした。


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