幸福さん

さわりの紹介

 きょうは、日曜日のせいか、つりぼりはたいそうにぎわっていた。が、そのくせ、妙に、ひっそりもしている。だれもかれも、濁った水面に頭を出しているウキを見つめながら、何か、重大にして深刻な考えごとにふけっているようである。

 いや、本当は、無我の境地にあるのかもしれないが、なかには、ゆうべの夫婦げんかを回想して、たとえば、(男子、門をいずれば七人の敵あり、ですぞ。亭主が信用できなければ、出ていってもらいましょう)と、実は、女房の前で、いいたくて、ついにいえなかったセリフをこっそり、繰り返して、いささか溜飲を下げている人も、ふたりや三人はありそうだ。

 しかし、丹丸さんには、その夫婦げんかの相手もなかった。ことし、五十九歳だが、九年前に、奥さんに先立たれたのである。
 丹丸さんの横に、七歳になる孫の正美君がいる。
 おじいさんと孫が、ここにつりざおを並べてから小一時間になるのだが、まだ、一匹のフナもつれない。きょうは、どうかしている。しかし、丹丸さんは、それくらいで、気分をいらだたせたり、腐ったりするような人ではない。その証拠に、空を見上げて、
 「ああ、なんたる幸福・・・・・」
 と、つぶやいたのである。

 早春の日は、まことに、うららかである。藍色の空に、光をいっぱいにはらんだ雲が、ぽかっと浮かんでいる。少しずつ動いているのだろうが、ほとんど、感じられない。何もかも、気が遠くなっていくようにおだやかである。そして、丹丸さんは、いつか、うつらうつらとなっていた。
 「おじいちゃん、おじいちゃん」
 丹丸さんは、ハッと目をさました。
 「ほら、動いている、ほら」
 「おお」
 丹丸さんは、大急ぎで、さおを上げた。宙につり上げられたサカナは、キラキラと光をはね返しながら、躍動している。正美君は、歓声を上げた。しかし、近寄せて見るとガッカリするほど、小さかった。せいぜいで、一寸五分のフナであった。
 「やア、おじいちゃん、子どものフナだね」
 「そうだな」
 「では、こんどは、おかあさんフナをつってよ」
 「何?」
 丹丸さんは、思わず、正美君を見返した。
 「あのね、おじいちゃん、おかあさん、フ、ナ。だって、おサカナだって、おかあさんといっしょにいたほうがたのしいよ」
 「・・・・・・・・」
 丹丸さんは、胸を突かれ、顔色を変えていた。せっかくの、なんたる幸福な気分は、とたんに逆転、なんたる不幸な気分になってしまった。

 そのとき、だれかが横へやってきた。ひょいと見て、丹丸さんは、顔をしかめた。いうなれば丹丸さんの微苦笑であった。
 そこに五十過ぎの女のひとが、大ニコニコ顔で立っていた。藤紫色のセーターに、あとニ寸ぐらいで、かかとにとどきそうな紺色のスカートをはいている。ムギワラ帽子をアミダにかぶっている。すべてが、色の白い、ポチャポチャとした顔に、よく似合って、お上品でさえあった。
 「まア、きょうもお会いできましたね。しかも、丹丸さんの横に、いきなりすっと席がとれるなんて、わたしは、とても運がいいような気がしますよ」
 「さようか」
 「ええ、そうですとも。はい、正美ちゃん、キャラメル」
 「ありがとう」
 女は、さっそく、つりの用意にかかった。

Tの感想・紹介

 「幸福さん」は、1953年2月3日より7月3日まで、『毎日新聞』に連載された新聞小説です。源氏鶏太は、昭和23年に『大阪新聞』に彼の最初の長編である「火の誘惑」、『婦人日日新聞』に「夜の太陽」を連載しておりますが、大新聞への本格的な連載は、この「幸福さん」が最初です。また、彼は1950年代前半に、「ホープさん」、「英語屋さん」、「随行さん」、「目録さん」、「ラッキーさん」などの「○○さん」を多数発表しておりますが、「幸福さん」が「○○さん」シリーズの最後の作品であり、唯一の長編小説であると云うことも付け加えておきましょう。

 内容は典型的なホーム・ドラマです。主人公の丹丸さんを中心に善人達が沢山登場します。

 主人公の丹丸さん。59歳。丸の内のある会社の顧問。孫の正美君と二人暮し。正美君のお母さん、美加子さんは、正美君のお父さん、安川君と結婚したが、安川君は戦死。未亡人となった美加子さんは勤めたが、そこへの往復で知り合ったやみ屋の曽根君と結婚しました。この結婚に反対だった丹丸さんは、正美君を彼らに渡さずに自分の手元に置いて育てようとしています。丹丸さんの住まいは高円寺にあり、離れを友人の遺児、明朗君とみさきさんの兄弟に貸しています。

 明朗君は、大橋化粧品株式会社という小さな化粧品会社に勤めており、営業をやっています。会社の社長は弥生さん、弥生さんの旦那さんが、副社長兼技師長の大橋和郎さん。明朗君は、和郎さんの開発したクリームや口紅をマネキンの弘子さんを連れて、化粧品店を廻って宣伝するのが仕事です。弘子さんは結婚していますが、夫とともに物凄い倹約家です。沢山貯金していて、同僚に高利でお金を貸し付けたりします。

 みさきさんは、昨年から会社勤めしていますが、一番の心配事は両親のいない自分がよい結婚が出きるかどうかです。

 丹丸さんと釣堀で知り合い、丹丸さんのために一肌も二肌も脱ぐおばあさんが花子さんです。花子さんは、10年前に旦那さんを亡くした未亡人ですが、長男の卓夫君とその妻の康子さんと暮しています。卓夫君は、花子さんが丹丸さんにぞっこんなのを良くは思っておりませんが、康子さんは、応援しています。

 このようなシチュエーションで進むホーム・ドラマです。メインのラインはみさきさんの結婚です。みさきさんには、加東君という恋人がいたのですが、加東君の母親が、両親のいない貧しい娘を嫁に取る訳には行かないと大反対し、この婚約は無くなります。これに怒った花子さんは、加東君のお母さんに談判したりもするのですが、らちが開く訳も無く、結局失恋します。そこに現われたのが、康子さんの弟の次郎君。次郎君は九州の山奥で林業会社の現場監督をしているのですが、花子さんや康子さんが中を取り持ち二人はゴールインします。

 その間、大阪、名古屋と転々としていた美加子さんが帰ってくる、明朗君には弥生さんの姪で、富山から出てきたばかりの娘、モエ子さんと新コンビを組むといったエピソードが語られ、老コンビ、丹丸さんと花子さんの結婚も予想される結末で終わります。

 「幸福さん」に登場する人物は皆それぞれに不幸を抱えています。でもそれを幸福に変えていこうとする好日性があります。不幸があっても善良なお互いの助け合いで、自分たちの不幸を最小限にしていこうとする姿勢があります。全体にほのぼのとした筆致で、ゆったりとした雰囲気が根本にあります。

 映画化は1953年、東宝で。白黒2551メートル。製作/ 藤本真澄 、監督/ 千葉泰樹 、脚本/井手俊郎、撮影/.玉井正夫 、音楽/黛敏郎 といったスタッフで。配役は、丹丸さん:三津田健 、正美君:小畑やすし、美加子さん:丹阿彌谷津子 、みさきさん:有馬稲子、花子さん: 田村秋子 、卓夫君: 伊豆肇 、康子さん: 杉葉子、次郎君:小泉博 、明朗君:小林桂樹 でした。

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