鏡の中の真珠

さわりの紹介

 宗介は、地下鉄を銀座で降りて、会社まで歩いた。いつもだとそのまま五階の片隅の相談役室へ行き、そこで外から何か昼飯を取って貰うのだが、すでに十二時が過ぎかけていることに気づいて、ふと社員食堂へ行ってみようと思った。
 N薬品の社員食堂は、地階にあった。日によって献立てが違う。今日は、とんかつ弁当とライスカレーとチャーシューメンで、それぞれセルフサービスになっていた。宗介は、とんかつ弁当が気に入った。おとなしくその行列の後についた。誰もまだ宗介に気がついていないようであった。
 宗介が社員食堂にくるのは、何年振りかであった。N薬品の重役たちは一般社員と昼食を共にすることを避けたがる風習があった。近くのレストランへ出かけたりしていた。また、重役には接待の昼食の機会が多かった。勿論、かつての宗介もその例外ではなかった。
 しかし、宗介は、今日に限って社員食堂にくる気になった。そのことはあるいは、宗介が渋谷で夏子に会ったことに無関係でなかったかも知れない。気持の若返りの結果であったかも知れない。若い社員たちにじかに接してみたかった。事実、社員食堂は、活気に満ちていた。その騒々しさも、昔の宗介には煩わしかったろうが、今は気持がよかった。片隅の相談役室でざるそばかなんかを取って貰って、一人ぼそぼそと食べているのとは雲泥の差がありそうだ。勿論、そこらに重役たちの姿は見当たらなかった。そのことも宗介に却って気楽であった。
 宗介の順番が来た。しかし、そのときになって宗介は、一般社員があたえられている食券を持っていないことに気がついた。外部からの人間を避けるために食券がないといけないことになっていた。
「現金ではダメかね。」
 宗介は、ためしにいってみた。せっかく待ったのに、いや、それ以上にせっかく社員食堂にという気持になったのに、と残念であった。
「困ります。」
 係の男は、宗介がかつての社長であったことを知らないらしく、つれなく頭を横に振った。
「どうぞ、相談役。」
 宗介のすぐ後の男が笑顔で食券を一枚差し出していた。せいぜい二十七、八歳の男であった。宗介は、その名を知らなかった。顔にも見覚えがなかった。恐らく、宗介が社長を辞めてから入社したのであろう。しかし、その笑顔の爽やかさは、宗介に嬉しかった。少なくとも相談役でありながらこんな社員食堂に来ている宗介をよそ者と思っていない親近感に溢れていた。
「すまんな。お金を払うよ。」
「とんでもない。どうか、私におごらせて下さい。こんなことってめったにありませんし、相談役におごるなんて光栄です。」
「そうか、喜んでおごって頂くよ。」
「ついでにサービスをさせて頂きます。」
 男は、自分のと宗介のと二つのとんかつ弁当を持って、
「どうぞ。」
 と、宗介の先に立って、壁際の空席の方へ歩いて行った。
 男は、テーブルの上にとんかつ弁当を置くと、
「失礼します。」
 と去りかけた。
「ちょっと。」
 宗介は、呼びとめて、振りかえった男に、
「よかったらここでいっしょに、どうかね。」

Tの感想・紹介

 「鏡の中の真珠」は、1977年9月より1978年8月のほぼ1年間に渡り「河北新報」他11の地方新聞に連載された新聞小説です。源氏鶏太は、本質的に新聞小説作家で、新聞小説に特に優れた作品が多いのですが、この「鏡の中の真珠」もその源氏の特徴を遺憾なく発揮した新聞小説で、彼の晩年の代表作です。

 源氏鶏太は、自分と同世代より年上の年齢層を主役級で作品に登場させないのが一つの特徴です。初期の作品では「七人の孫」のような例外もありますが、中期以降はほとんどそうだと思います。例えば、名作「停年退職」は五十歳の時に書かれており、このころ、停年の気持を実態として分かるようになった、ということなのだろうと思います。同様に、ある年齢まで、老人が主人公として活躍する作品は書けなかった、ということがあるかも知れません。その源氏も65歳となれば70歳の主人公を設定するのも無理ないことになります。そして、矢代宗介という老主人公が誕生しました。

 矢代宗介は70歳。かつてN化学工業の専務取締役を務めましたが、60歳のとき社長は彼より5歳も年下の湯浅道夫が抜擢され、彼は子会社のN薬品の社長に転出しました。彼はN薬品の業績を向上させ、65歳で会長、昨年相談役となり、現在週に2回会社に出る身分となりました。しかし、会社に出ても特別の仕事があるわけではありません。家にいると、嫁に邪魔にされているような気がして、出かけざるをえなくなります。

 ある日、そうして会社に出ようとして渋谷を歩いていると、20年ぶりで昔の情事の相手夏子と偶然再会します。夏子は結婚して田舎に戻ったのですが、その後離婚し、現在は銀座でバーを経営しています。宗介は、夏子とよりを戻し、気力が戻ります。夏子と会ったことで元気になった宗介は、滅多に行かない社員食堂にいって、女のことで問題を起し、課長に睨まれている自称ダメ社員・明石太郎と知り合います。

 宗介は、明石太郎と付き合う様になり、朝井専務、太郎の直属の上司である多木課長らが、S薬品の社長と共に背任行為を行っている疑いがあることを知ります。宗介は、夏子に太郎を紹介し、夏子の水商売ルートと太郎の営業ルートの両方を使って、背任の全貌を知ろうとします。

 ところで、宗介の家族は、息子でT機械の資材課長を務めている宗太郎夫妻と、孫娘で今年の春からS工業に勤めている麻子とまだ学生の宗吉の五人家族です。宗介は、孫娘の花嫁姿を眺めてから死にたいと願っています。麻子には恋人がおりましたが、彼の女性問題で別れ、宗太郎の同期で出世頭北山の肝いりで、T機械の大株主K産業の高平専務の息子雄吉と見合をし、付き合い始めます。

 朝井専務らの不正は、S薬品の他に幾つかのトンネル会社を使って、S薬品に不当な利益を上げさせ、そのリベートを女性に告ぎ込むというものでした。親会社のN化学工業の決断のもと、社内の大刷新が行われ、朝井専務とその不正を見ぬけなかった社長以下相当数の役員の解任と多木営業課長の降格が決りました。

 一方、麻子は、紳士ではあるけれどもどこか爽やかさに欠ける雄吉を好きにはなれず、偶然知り合った爽やかな男らしさを持つ太郎に惹かれて行きます。

 一年弱連載された作品ですが、伏線が最後にきちんと整理されるあたり、相当プロットを固めてから書かれた作品であると思われます。彼のストーリーテーラーとしての実力がよくわかる作品です。


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