課長さん

さわりの紹介

 発車までに、あと二十分ぐらいある。
 北原さんは、寝台車の中で、社長が現れるのを待っていた。社長は、自分で、切符を持っているのであった。すなわち、社長は下段であり、北原さんは、その上段なのである。どうも、恐れ多い気がする。それに、うかつにイビキもかけないようだ。イビキをかいて、明日の朝、社長から、
 「君のイビキで、一晩中、寝られなかった」
 とでもいわれたら、何んとも弁解のしようがないのである。
 しかし、北原さんにとって、そのことよりも、もっと頭痛のタネなのは、社長夫人から頼まれたことであった。
 (全く、とんでもないことを頼まれてしまったな)
 社長夫人は、こんなことを頼むのは、北原さんがはじめてだ、といっていた。それはそうであろう。社長夫人が、随行員の一人一人に、そんなことを頼んでいたとしたら、社内の噂のタネにならん筈がないのである。だから、その点、社長夫人は、特に、北原さんの人柄を見込んだのであり、また、近頃、社長の行状に、よくよく、我慢がなりかねたのであろう。それにしても、頼まれた北原さんこそ、大迷惑であった。同時に、そんなことを社員に頼むようでは、社長夫人としての資格がない、といいたいのである。しかし、社長夫人としては、社長夫人としての資格にかまっていられないほど、社長の行状に神経をとがらしているのかもわからない。
 北原さんは、今にして、秘書が、内証話でもするように話しかけておいて、途中でやめたことを思い出していた。
 (あれは、社長の浮気に、何かの関係があったのだろうか)
 そして、社長に、旅先で浮気をしたがる悪癖があるとすれば、随行員としての北原さんの前途は、社長夫人にあんなことを頼まれているだけに、まことに多事多難と覚悟すべきであろう。
 (どうか、社長が浮気ごごろを起さず、平穏無事な旅行で終わりますように)
 北原さんは、神さまにお祈りしたい心境になっていた。
 「やア、ご苦労」
 社長の声に、北原さんは、振り向いた。そして、気がついた。社長のうしろに、女が、三人もついて来ていることに。

Tの感想・紹介

 「課長さん」は、昭和35年1月号から36年3月号まで、「婦人倶楽部」に連載された長編小説です。昭和35から36年は、流行作家・源氏鶏太の最も忙しかった時期で、それなりに佳篇も発表しています。その中で、本作は、とくに新しいチャレンジをしているわけではなく、源氏鶏太の守備範囲を守って、きっちりと纏めた作品です。プロの仕事です。読めば、軽妙でとても面白いのですが、逆にいえば、源氏の代表作にはなり得ない作品といってよいと思います。

 主人公は、東野金属工業株式会社・総務課長、北原洋太郎さん。45歳。総務課長代理から総務課長に昇進するところからこの作品が始まります。勿論早い昇進ではありません。でも奥さんの啓子さんは、北原さん以上に夢心地になり、
 「あなた、キッスをして」
 と言い出すほどだったのです。啓子さんは42歳で21歳の娘・洋子の母親です。見た目は若いとはいえ、自分からキッスを要求するなど、その興奮のほどが思いやられます。そして、盛大に昇進祝いのご馳走をしましょうといいます。

 しかし、昇進すれば、部下の誘いを断るわけには行きません。啓子さんのご馳走をすっぽかして、北原さんを慕う登美子のいるおでん屋「甚六」を始め、飲み屋を梯子して、午前様の帰宅となります。啓子さんのご機嫌は損ねますが、部下の心は掴んだようです。北原さんの課長としての最初の重要業務は、社長の随行としていく大阪出張です。社長は、旅先で浮気をしたがる悪癖があり、社長夫人より、そのようなことにならない様にと、厳命されます。しかし、社長は、バー「マボロシ」のホステス涼子を急に連れて行き、北原さんは社長を諌めるのに、大変苦労します。

 前半の話の山場が社長の出張随行だとしますと、後半は、娘・洋子の恋愛問題や社員の恋愛問題などです。洋子は、カレー屋のコック・武中と恋愛していますが、啓子さんは、娘の相手はきちんとした会社のサラリーマンがいいと思っています。そこで、洋子の意志を無視して、お見合をセットします。その相手が大谷です。大谷にも喫茶店のウェイトレスをしている恋人・妙子がいます。また、北原さんの課の女子社員・信子の結婚は、父親と婚約していた高岡の母親とが喧嘩したため、本人達の意向を無視して破談になってしまいます。北原さんは、若い恋人達の恋の成就に、否応無しに手を貸さざるを得なくなり、社長の手も借りて、円満に纏めるのです。

 源氏鶏太の初期の作品に「〜さん」とついた作品が幾つもあります。直木賞受賞作の「英語屋さん」を始め、「随行さん」、「ホープさん」、「ラッキーさん」などです。その後しばらく「〜さん」というタイトルをしばらく使わなかったのですが、久々に使用したのがこの作品です。そのせいかもしれませんが、人物造形、中身の馬鹿馬鹿しさは、ある意味昭和20年代の作品に通じるものがあるように思います。


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