重役の椅子-総務部長死す-

さわりの紹介

 船田は、車窓を過ぎて行く有楽町や新橋辺のネオンサインのあくどい色を眺めながら、今頃、相川家では大変であろう、と思っていた。一言の遺言も聞かれず、一日の看病もしてやれなかった相川の妻の無念さと心残りを考えてみずにはいられなかった。
 そして、また、本来なら、今頃、自分たち親子は、熱海にいた筈なのだ、と思った。もし、あの電話が一分遅かったら、あるいは、秀子が、あの電話を聞く気にならなかったら、そうなっていたに違いない。そのかわり、彼は、大阪行の大役を仰せつけられなかっただろう。熱海行が中止になって、秀子も子供たちも、不満そうであった。旅館の予約は、田崎に取消さした。
 「相川さんでなしに、俺が死んだのだったら、と考えてみろ。熱海行の中止ぐらい、何んでもないじゃアないか」
 「わかっています」
 「葬式には、俺のかわりに行ってくれ」
 「はい」
 「熱海へは、そのうちに、きっと、連れて行ってやるから」
 そして、予定が狂ったのは、船田だけではなかったろう。急に、会社へ呼び寄せられた社員たちも、それぞれ、予定が狂ったに違いない。中には、ランデヴーを取り消さざるを得なかった若い社員もいる筈だ。しかし、それなど、相川の死による最も小さな波紋に過ぎまい。大きな波紋は、これからなのだ。これから、ひろがってゆくのだ。得する人間もあれば、損する人間もあるだろう。船田は、そう、思った。
 船田は、鞄の中から書類を取り出して、試験勉強をはじめた。この書類は、相川の鞄の中に入っていたのである。だいたいのことは、彼にもわかっていた。が、果して、交渉を政高に導くことが出来るかどうか、船田には、自信がなかった。
 汽車が、横浜駅に滑り込んだ。何人かの人が、乗り込んで来た。
 「あら」
 そういう声に、船田は、書類から顔を上げた。三十前後と思われる和服の女が立っていた。自分の切符の番号と座席の番号を見くべている。が、間違いないと分ったらしく、腰をかけた。汽車は、横浜駅をはなれた。女は、すこし腰を浮かして、周囲を見ていた。首をかしげている。腰を落してからも、何となく、落ちつかないようだ。
 船田は、煙草に火を点けた。
 「失礼ですが」
 女は、思い切ったように、船田に話しかけて来た。
 「極東商事のお方でしょうか」
 「そうですが」
 船田はあらためて女の顔を見た。肉感的、という印象だった。
 「今夜、相川さんが、大阪にいらっしゃる筈ではなかったんでしょうか」
 「相川さんをご存じですか・・・・・」
 「はあ、ちょっと・・・・・」
 女は、曖昧にいった。が、そのとき、船田の頭の中に、閃くものがあった。そうだったのか、と唸りたくなっていた。
 「相川さんのかわりに、私が、急に、大阪に行くことになったんです」
 「まア、そうでしたの」
 女の顔に、ありありと、失望の色が現れて来た。
 「もし、相川さんとごいっしょにいらっしゃることになっていたのでしたら・・・・」
 「いいえ」
 「違うならいいんですが」
 「相川さん、どうか、なさったんですか」
 「そうなんです」
 女は、急に、心配になったらしく、
 「ご病気ですか」
 「いや」
 船田は、前を見たまま、
 「どうか、びっくり、なさらないように」
 「えッ」
 「亡くなられました」
 「嘘ッ」
 女は叫ぶようにいった。
 「本当です」
 「あたし、信じられませんわ。だって、昨夜、お会いしたばかりなんですもの」
 が、すでに、女の声は、乱れていた。
 「今日、午後三時頃、会社で、脳出血で」

Tの感想・紹介

 「重役の椅子」は、1957年7月から12月にかけて雑誌「キング」(講談社)に6回にわたって連載された長編小説です。発表当時は「総務部長死す」で、その後改題されました。源氏鶏太は、月刊誌小説には傑作が少ないのですが、「重役の椅子」は、例外的な傑作であり、源氏鶏太の代表作の一つといっても過言ではないでしょう。

 極東商事取締役総務部長の相川竜介は47歳。自他共に認める同社の実力ナンバーワンで、社長の塚越の信任も厚い。これに対抗するのが立花専務です。要するに、極東商事には、社長派と専務派の二つの派閥の流れがあり、社長派の旗手が相川だったということです。総務部次長の船田三郎は、その中間を歩いていましたが、相川は、船田の実力を買って、総務部次長に据えたのでした。

 社内随一の実力者の突然死からお話がはじまります。それまで安定していた社内の状況が変わります。凡庸な社長である塚越は、自分の忠実な部下であった相川の死を悲しむこともなく、退職金についても増額を嫌がリます。また、相川の直属の部下であった船田に対して、相川が行く予定であった大阪出張の代理を命じ、葬式への出席も認めない始末です。それに対して、立花専務は最大の好敵手の死亡に深く哀悼を示し、相川の退職金の増額に心を配ります。

 相川には、妻と二人の娘がいたのですが、ホステスを二号にし、男の子まで生ませています。船田は、大阪出張の車中でこの二号、和田きみ子と出会い、相川の机から彼女名義の預金通帳を取り出して、渡してくれるように頼まれます。

 会社の内部の力関係は、一挙に専務に傾きます。専務派の社員たちは、社内を肩を風切るようにして歩きます。一方、社長派の社員たちは、背を縮ませて歩きます。相川の娘・音子の婚約者然としていた若手社員・梶谷は、手を返したように音子と別れ、同僚の千恵子と付き合い始めます。そして、社長派から専務派に鞍替えします。専務派の社員たちは、酒を飲みながら自分勝手な辞令を出したりします。しかし、野心家の立花は、派閥解消に乗りだし、露骨な専務派偏重の人事案を持って来た営業部長を叱りつけます。

 一方、社長は、大株主の竹山に取り入って、専務を追い落とし、総務部長として妻の親戚の冨田を入社させ、船田を大阪支店に老い出そうとします。この話を、またバーに勤め始めたきみ子から聞いた船田は、専務と協力して、社長の追い出しに乗りだします。

 会社の派閥争いを中心とした典型的なサラリーマン小説ですが、話の運び方が巧みで、主人が亡くなったあとのサラリーマン家庭の哀れさ、派閥争いに巻き込まれた若い社員の描写などよく書けていると思います。源氏鶏太の代表作に上げるにふさわしい中身だと思います。

 映画化は1958年4月、東宝にて。監督が筧正典。脚本が猪俣勝人。出演は、池部良、団令子、柳永二郎、水野久美、淡路恵子、河津清三郎、佐原健二などでした。

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