人生感あり
さわりの紹介
「有沢君。」
と、荒井課長に呼ばれた。
修三は、もうそれだけで嫌な予感がしていた。
(さては、室谷のことをいわれるのだな)
しかし、そのことなら昨日ものり子にいったように自分なりの覚悟が出来ているつもりであった。が、あくまでつもりであって、さてとなると、やっぱり気怯れがしてくる。なるべくならそばへ寄って行きたくなった。
「有沢君、呼んでいるのにわからないのか。」
荒井課長は、重ねていった。すでにして、不機嫌になっているようである。修三は、立ち上った。そんな修三を、課員たちは、気の毒そうに見ている。近頃の修三が、殊に荒井課長に受けが悪いと知っているのである。しかし、中でも長谷明子の目は、明らかに修三をさげすんでいるようであった。それが修三にも感じられて、胸にコチンとくるものがあった。
(何を)
と、睨み返してやりたくなってくる。
いや、そう思う前に睨みつけてしまっていた。明子は、ふんというように自分から目をそらした。
修三は、荒井課長の前に立った。ニコリともしないでいた。自分ながら、これでは可愛げがないと思わぬでなかった。しかし、どうにもならないのである。また、かりにニコリとしたところで、荒井課長は、その何分の一も応えてくれぬだろう。勿論、修三は、荒井課長に対して、そういう期待は全くしていなかった。それよりも、その顔を見るたびに、
(この課長は、リベートをとっているのだ!)
と、思わされて、不愉快さが、込み上げてくるのであった。
そのことを、課員たちの前で絶叫したくなってくる。しかし、それはS工業の社長から固く禁じられているのだ。もし、それを敢えて破ったらS工業の社長にまで迷惑を及ぼす恐れがあるのである。
「腰を下ろしたまえ。」
荒井課長は、顎先を課長机の前の丸椅子に向けながら言った。これは珍しいことなのだ。修三は、いよいよ、室谷のことをいわれるに違いない、と思った。しぜんに表情がこわばってくるようであった。修三は、丸椅子に腰を降ろした。
荒井課長は、煙草に火を点けた。それを吸いながらジロジロと修三を見ている。イワクありげな目つきになっていた。しかし、なかなか発言しようとはしなかった。そうなれば、こっちだって黙っているだけだと、修三は、そっぽを向くようにしていた。課長と課員の間に重苦しいような沈黙が流れていた。それをまた他の課員たちは、固唾を呑むようにしてなりゆきをうかがっているのであった。
「君は、入社して、何年になる?」
やっと、荒井課長が言った。
「四年目です。」
修三は、答えた。いきなり室谷のことをいわれるのかとおもっていたのである。あるいは、室谷は、まだ何もいっていないのであろうか。それならこちらからいってやってもいいのである。どうせ、いつかはその耳に入るのなら、自分の方からいっておいた方が、寧ろ正正堂堂としていることになりそうだ。
「そうか、四年目か。」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
「はじめから営業であったな。」
「そうです。」
「同じ課に四年もいると、どうしても仕事にだれてくるだろうな。いや、君がそうだといっている訳ではないのだよ。」
「・・・・・・・・・・・・・・。」
「サラリーマンなんて、心機一転するためにも三年目か四年目に、職場を変わった方がいいようだな。」
どうやら荒井課長は、修三を他の職場に変える魂胆のようだ。修三は、
(しめた)
と、思った。
作品の話
「人生感あり」は、1964年10月27日から翌1965年8月16日まで『高知新聞』他7紙に連載された長編小説です。単行本は、文藝春秋社より1966年に出版されました。
作品の枠組みは、正義感あふれる青年社員が不正を働く上司に反抗しながら、最後には上司の不正を暴き、自分また結婚相手を見つけるという源氏鶏太らしいサラリーマン小説ですが、昭和30年代前半に書かれた、典型的な明朗サラリーマン小説とは異なって、主人公は徹底的に上司に虐められます。主人公は絶対的スーパーマンではなく、弱さを抱えた未熟な青年です。それだけに、正義一筋に行くというわけにはいきません。弱さが現れ、心も揺れ動きます。最後は「正義が勝つ」ように終らせていますが、源氏としては、本当は、正義は負けることもある、ということを書きたかったのではないかと思います。
有沢修三は、従業員数500名ほどの中堅商事会社N商事機械課に働く、入社4年目の青年社員です。28歳。正義感に溢れる明朗な青年ですから、直属の荒井課長が、取引先にリベートを要求し、莫大な額のリベートを着服していることを知った時、上司の不正にやりきれない気持ちになります。もともと気の合わない荒井課長ですから、寄り反抗的になり、荒井課長からもいじめられます。取引先のS工業からの帰り、修三は、偶然厚生課の片岸のり子と偶然に出会い、意気投合して、お互い愛し合うようになります。
のり子の部屋の隣の部屋に住む浜谷由子は、妻子ある男・室谷と不倫をして捨てられるのですが、のり子と修三は、室谷から由子が貢いだお金の一部を取り返すために一肌脱ぎますが、室谷は荒井課長の縁続きでした。一方で、修三に秘かな好意を寄せていた長谷明子は、のり子の出現に慌てて、両親を失って不幸な境遇にいるのり子の悪口を言い、修三に嫌われます。逆恨みした明子は、荒井課長にでたらめを言って、修三を中傷します。そんなわけで、課長と修三の関係はますます悪くなります。
のり子と婚約した修三は、彼女の上司、部下思いで磊落な西森課長を知り、その人柄に心服し兄事することを誓います。しかし、修三は、荒井課長の策略で大阪転勤させられます。西森課長は、結婚して大阪に彼女を連れていきたい修三に、一年間の我慢を勧めます。
大阪に来た修三は早く東京に戻りたくてたまりません。そのため、東京に戻してくれると言った宿敵荒井に対して、尻尾を振ってしまいます。荒井は、のり子に悪口を吹き込むため、バーの女に修三を誘惑させます。酔っていた修三は、バーの女の部屋に泊ってしまいます。それをのり子に知らせて、荒井は、のり子と修三の関係を裂き、自分がのり子わがものにしようとたくらみます。
結局荒井ののり子への誘惑は失敗し、リベートを出していることは絶対に言わないでくれ、というS工業の社長との約束を守っていた修三ですが、最後は、それを西森にぶちまけます。
悪役の荒井が、あまりにも典型的悪役に描かれていて、平面的ですが、主人公の修三は、正義感ですが、決して強い人間ではなく、これまでの源氏鶏太作品の「坊ちゃん」的ヒーローとはかなり異なります。それだけに、悪役の荒井をもっと多面的に描ければ、作品のふくらみが更に向上しただろうと思います。悪い作品では無いですが、もう少し掘り下げて創作すれば傑作になっただろうと思わせる一冊です。
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