人事異動
さわりの紹介
平太は、診療所を出た。周囲を見まわしてからニヤリと笑った。噂について、白を切って来たが、しかし、そういう噂をバラまいているのは、渋谷市助なのだ、とわかっているからだった。
サラリーマンの世界で、最大の関心事といえば人事異動であろう。どこかにちょっとした波を起しておけば、それがみるみるうちにひろがっていくに違いないのである。平岡医師の話だと、すでにして相当な波紋になっているそうだ。
しかし、問題は、あくまでもこれからなのである。今の間に、単に、人事異動の噂だけをひろめておいて、次は、もっと具体的な噂を広める計画であった。
例えば、次の株主総会には、社長がかわるらしいとか。または、薮田専務が退陣するらしいとか。要するに、人心を惑乱させてやればいいのである。
あるいは、すべては、徒労に終るかもしれない。その可能性が多分にある。しかし、平太は、かまわないと思っていた。真紀子を失った悲しみを、そちらの方へ情熱を傾けることによって忘れたいのであった。
向こうから武仲昭三が歩いてくる。が、平太の顔を見ると、嫌そうな顔をした。しかし、平太はかまわずに近寄って行って、
「昨夜は、どうも失敬」
失敬したのは、寧ろ、武仲昭三の方なのだ。が、昭三は、黙って、平太の顔を見ていた。そこに多少の虚勢が感じられた。「あれから夏井君によくいっておいてやったからな」
「・・・・・・・」
「すまんぐらいいったらどうだ」
「すまん」
「ああ、いいとも。ところで、夏井君はこの会社を辞めるかもわからない」
「何?」
「平岡先生にそのようにいっていたそうだ。今日は、休んでいるが」
「・・・・・・・」
「君としては、安心していいわけだよ」
「間違いないか」昭三は、念を押しながら、今夜、薮田南子と会う約束になっていたのだ、と思い出していた。昭三には、夏井千代について、昭三なりの言い分があるのだ。接吻をしたという負い目を感じてはいたが。
(しかし、接吻をしたというだけで、その女の一生を背負わなければならんということはない筈だ)
そう思いたいのだった。南子に対して、積極的な行動に移るためには、何としても千代のことが気になるのだ。しかし、その千代が辞めるというのだったら、安心していいのである。平太もそういった。「ああ、間違いないね。ただし、これだけは覚えておいた方がいい」
「何のことだ」
「彼女は、いつでも君を待っている女であるということを」
「よけいなことをいってくれるな」
「では、事のついでによけいなことをもう一つ」
「・・・・・・・」
「次の株主総会で、薮田専務が辞めるそうじゃアないか」
「おい、ほんとうか?」
昭三は、顔色を変えた。
「いや、噂なんだから。そして、噂って、アテにならんもんであることは、君だって、よく知っている筈だろう?」
「・・・・・・・」
「検査役室勤務になるという噂があった君が、そのまま車輛課に残り、この俺が検査役室へまわされた」いい捨てるようにして、平太は昭三の前をはなれた。
「待て」
昭三が追って来ていった。平太は、無言のままで振り返った。「今の噂、だれに聞いたんだ」
「忘れたよ、失敬」平太は、歩きはじめた。こんどは昭三も追ってこなかった。しかし、昭三の表情には、明らかに動揺の色が走っていた。
(武仲よ。俺のデタラメな噂を信じて、薮田専務の娘を追っかけるような愚かな真似だけはよした方がいいぞ)
平太は、それがいいたかったのだ。勿論、それ以外の効果も狙ってのことであったが。
作品の話
「人事異動」は、1960年7月25日号から翌1961年3月6日号まで『週刊文春』に連載された長編小説です。源氏鶏太の流行作家時代の一番華やかな時代に書かれた作品で、内容も、社長派と専務派との派閥抗争に明け暮れる商事会社を、監査役とその部下の快男子が立て直すという、典型的な明朗サラリーマン小説です。最も源氏鶏太的作品と申し上げてよいかもしれません。
武仲昭三は、世界物産株式会社の若手社員です。彼は、抜群の働き手で、早くも車輛課長代理という要職にあり、課内の人気も上々です。それでいて、交通事故で亡くした婚約者のことを忘れられず、未だ独身という純情な一面も持った青年です。ところが、たまたま社内の診療所で、近々の人事異動で、この武仲昭三が検査役室に廻されるという噂を、本人が耳にします。それは左遷であり、同時に社内の主流からはずされることです。しかもその噂は既に広まっていて、知らぬは本人ばかりでした。
これを知った昭三は、なんとかして検査役室勤務から逃れようとして焦りだし、手段を選ばず動きます。薮田専務の娘・南子が、診療所の看護婦の夏井千代の同級生であることを知ると、その伝手を利用して、薮田専務へ働きかけます。普通の弱いサラリーマンの保身を戯画的に描いています。昭三は、この作品の重要な登場人物ですが、それ以外の脇役についても、派閥争いや人事に敏感な人達が戯画的に描かれます。
この出世欲に駈られている昭三と対照的に描かれるのが、源氏鶏太のこの手の作品に欠かせない快男児です。名前は曽根平太。昭三と同じ大学を卒業した同期生ですが、サラリーマンのがつがつとした出世欲とは無縁の人間で、寧ろ女遊びにうつつを抜かしている、そういう人間です。正義感の強い平太は、昭三の検査役室転勤を憤慨し、彼のために動くのですが、結局昭三の代りに検査役室に異動になります。検査役室のボスは、関森監査役。平太と同僚の渋谷市助は、派閥争いの結果、会社の勢いが削がれている状況に憂いを持っている関森監査役を盛り立てて、会社の建てなおしに尽力することになります。
人事というサラリーマンの最大の関心事と派閥争そいを上手く組み合せ、よくいるタイプのサラリーマン武仲昭三と、それに対応する曽根平太を置いて、サラリーマン社会の馬鹿ばかしさと切なさを描いた作品となっています。ただ、流石に内容は古く、また、描き方も類型的であり、源氏鶏太のこの時期の作品としては、特に傑作とはいえない仕上がりになっていると思います。
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