一所懸命
さわりの紹介
「太郎は、それでも半信半疑だったらしいのだ。それで、父親にいう前に、実は、とこのわしに相談に来たのだ」
多助がいった。酒のせいもあってか陶然としているようだった。ここは「久代の店」で、相手をしているのは久代と老田であった。
「で、どうなったんですか」
老田は、気がかりそうにいった。
「わしは、わざと一人前の男がそんなことぐらいでおどろくなといってやった。そんなに心配になるのなら父親にじかに訊いてみろといってやった。親子水入らずで、男同士の話し合いをしてみろといってやった」
「なるほど、専務らしいおっしゃり方ですね。いや、当然そうあるべきでしょうな」
「そのあげく、息子は、太郎に何も彼も話したらしい。太郎の方でも何も彼も息子に話したらしい。勿論、酒を飲んでであろうが、わしは、お互いにすこしぐらい意気統合したのでないかと思っている。」
「私は、まだ二人にお目にかかったことがありませんが、しかし、そういう微笑ましい光景が見えてくるようです」
「微笑ましい? まア、そういうことにしておこう。でないと困るからな」
「そうですとも。で、麻衣子さんもすぐお父さんとそのお方のご結婚にご賛成なさったんですか」
「その方の説得は、太郎が自分から引き受けてくれたのだ。麻衣子は、素直にすぐうんといったかどうかは知らんが、しかし、太郎が桑山からの電話のことをいって、このままにしておいたのでは父親も実木子さんも可哀そうではないか、といったらしい。殊に実木子さんには大恩があるんのに放っておいていいのだろうか、といったらしい。で、麻衣子もその気になったようだ。いい直すと、桑山の電話がかえってよかったことになるのだ。あの電話がなかったら今頃、わが家ではまだ妙にこじれていたかも知れない」
「しかし、桑山は、籍を抜かないといっているんでしょう?」
「いや、その方は大丈夫なんだ。このおかみがうまく交渉してくれている。もうおおよその見当がついているのだ。そうだな、おかみ」
「はい。ご安心していて下さっていいと思います」
久代は、自信ありげにいった。
「ああ、何よりもおめでたいことですな、専務」
老田は、今にもカンパイしたそうだ。
「ところがたった一つ、太郎の結婚の方がまだ決まっていないのだ」
「どうしてですか」
「どっちも最後の決心がつかないらしいのだ。迷っているらしいのだ。で、わしも、息子も、実木子も、そのことは二人にまかせて、当分の間、ずるいようだが静観していようということにしているのだ。とにかくいい娘なんだ。わしにもそのことがやっとよくわかって来た。この人生を一所懸命に生きている感心な娘なのだ」
「一所懸命といえば、お話を聞いていて、皆さんがすべてそうだと思いましたが」
「しかし、君だって、そのつもりなんだろう? だから今は、梅子と仕合わせなんだろう?」
「はい。毎日を一所懸命にと、自分ではその気でいます」
「そして、あたしだってそうなんですよ、旦那さま」
「では、一所懸命のためにカンパイをするか。ついでにわれわれが老いてますます壮んになるように、即ち老壮の人となるために」
多助がゆっくり盃を上げると、他の二人も満ち足りたようにそれにならった。
作品の話
「一所懸命」は、1971年10月29日から翌1972年11月12日まで『東京新聞』、『中日新聞』、『河北新報』など、大手地方紙6紙に連載された長編小説です。
源氏鶏太の流行作家時代は昭和20年代後半から30年代にかけてであり、彼の代表作はほとんどこの時期にかかれているといってよいでしょう。いわゆるサラリーマン小説の旗手としての時代です。昭和40年代に入ると、彼は作風の変換を試み、幽霊ものなど、いわゆるブラック・ユーモアの世界に入ります。その一つの成果が1970年に発表された「幽霊になった男」です。「一所懸命」は、源氏がブラック・ユーモアの世界に入ってから書かれた新聞小説です。新聞小説の性格上、内容は従来の源氏鶏太の線から大きくずれているわけではありません。どこかで読んだことのあるような作品です。偉大なるマンネリズムといっても過言ではないと思います。
そうはいっても、登場人物が皆それなりに悩みや陰影を持った人間であり、従来の源氏作品の登場人物と比較すると、立体感があると申し上げてよいでしょう。
物語は、明治、大正、昭和生れの三代にわたる家族、矢沢一家の男女関係の結びつきに関するものです。明治生れの祖父・多助はA商事の専務まで勤め、現在は引退して悠々自適の境遇にあります。大正生まれの父・洋介は、T化学工業の取締役総務部長で、この二人は夫人と死別しております。子供は、S工業総務課勤務の太郎、25歳とK機械経理課勤務の麻衣子の二人兄弟です。
太郎はかねてから仲が良かった今野京子がパチンコ屋の親爺の二号にならなければならないことを知り、京子のたっての願いで一夜を共にします。麻衣子はかねてから同じ会社の麻田五郎をにくからず思っていますが、結婚退社する野沢律子に、自分のバージンを五郎に上げたという話を聞き、五郎を避けるようになります。一方、多助は、渋谷で不良に絡まれていたところを、江口以久子という若い女性に助けられます。以久子は、M車輛に勤めるOLですが、父親が若い女性と出奔し、姉は、ある人の二号となり、銀座のバーのマダムをしています。こういう境遇を婚約者に知られ、婚約を破棄されます。その時、彼女は妊娠していたのですが、中絶します。
倉持実木子と洋介は、かねてからお互いを好きあっていましたが、実木子は大阪の桑田の元へ嫁に行きます。しかし、桑田の愛人が妊娠したことを知り、家を出て、洋介の庇護のもと、東京で暮らすようになります。洋介は、友人の有賀に実木子の就職を頼み、有賀が社長のM車輛の社長秘書として入社します。多助には現役時代、久代という二号がおり、現在も彼女がやっている料理屋にいって飲んでいます。多助はかつての部下、老田が家に居場所がないことを知り、久代の店の下足番に雇ってもらいます。老田は店の女中、梅子と良い仲になります。
以上のように、この作品は、太郎と以久子、五郎と麻衣子、洋介と実木子、多助と久代、老田と梅子という年齢も条件も違う5つのカップルの恋愛模様を書いた作品です。そしてその中心になるのは、太郎と以久子、五郎と麻衣子の二つのカップルです。
自分に負い目のある以久子は太郎を避け、五郎の過去に不満のある麻衣子は五郎を避けます。けれども、麻衣子は五郎のことを忘れることが出来ません。しかし、京子が妊娠し、その父親が太郎である、と言ってきたことから大きく進展します。また、律子も五郎に妊娠したことを告げ、五郎が父親であるといいます。以久子は熱心に太郎を助け様とし、それを知った麻衣子は五郎の過ちを許そうとするのです。
色々なところでご都合主義的面が認められ、類型的な作品ではありますが、1500枚を越すボリュームをきちっとした形で整理しています。70年代の源氏鶏太の代表的長編と申し上げましょう。
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