一騎当千

さわりの紹介

 その日は、七洋プラスチック株式会社の前途を祝福するように、空は、晴れ上がっていた。冬にしては、暖かい日であった。
 工場の横に、五〇坪ほどの空地があった。そこに、テントを張り、役員と従業員がいっしょになって、カンパイすることになっていた。すでに、その準備は、すすめられていた。
 役員側は、悠子を入れて七人なのである。
 従業員のうち、事務関係は三人で、うち、女が一人。工場関係は、三十人で、うち、女が二十人。総勢四十人で、これから、怒涛の中へ舟を乗り出そうとしているも同然であった。宮口浩太郎の胸は、そのことを思うと、責任の重大さに痛くなってくる。同時に、硝子窓越しに、カンパイの準備のなされている光景を見ていて、
(よくこそ、今日の日を迎えられたものだ)
 との感慨なきを得ないのであった。
 猿山金五郎のこと、軽井きん子のこと。思えば、奥歯に物がはさまったようで、今日の日を迎えながら、どうにも、すっきりしないのである。不吉の予感というようなものを禁じえなかった。
(しかし、今は、何も、考えまい)
 宮口は、頭を横に振って、煙草に火を点けた。
 宮口は、銀座の「紫」のマダムを通して、今日の設立祝賀会に、猿山に出席して貰えないかと頼んだのだが、その必要はあるまい、とあっさりとことわられた。軽井きん子には、招待状を出さなかった。わざわざ、大阪から来て貰うのは大変だ、と思ったのだが、一つには、猿山が来てくれた場合、仲の悪いらしい軽井きん子と顔があって、せっかくの日に、まずい結果になりそうな気がしたからでもあった。その癖、宮口は、いつか、自分の眼の前で、二人を噛みあわせてやりたいものだ、と考えていた。恐れてばかりいずに、二人の正体を、確かめてみたいのでもあった。
 前工場主である山根は、昨日のうちに、一切の手続きを終って、今日は、姿を見せない。したがって、外部からの人間は一人もこぬ内輪だけの祝賀会ということになっていた。
(来年の創立一周年記念日には、うんと華やかにやりたい)
 いや、うんと華やかにやれるほどの実力を持ちたいのである。
(そうして、創立二周年記念日には、どこかの会場を借り切って、労使ともどもに喜べるようになりたい)
 更に、創立十周年記念日、三十周年記念日を迎えるようになりたいのであった。七人の同志が、お互いの退職慰労金を持ち寄って、やっと設立した資本金五百万円、工員三十人の会社が、その頃には、見上げるような大会社になっているかもわからないのである。それとも、一敗地にまみれて、あとかたもなくこの世から消え失せてしまっているかも・・・・。
 宮口がいるのは、昨日まで、山根がいた四坪ぐらいの部屋であった。そこを、そのまま、社長室として使用しよう、という案も出たが、
「今から、社長室なんて、この会社ではゼイタクだよ。」
 と主張し、事務室に通じる扉と壁を取り払って役員室と事務室との区別をなくしてしまった。
 したがって、この部屋には、今後、役員と事務員の十人が同居することになっていた。

作品の話

 「一騎当千」は、月刊誌「日本」の1959年4月号から1960年5月号まで14回にわたり連載された長編小説です。単行本は1960年に講談社から出版されました。

 源氏鶏太は、1950年代から1960年代の明朗小説の旗手であり、サラリーマンを主人公とした作品を数多く発表していたのですが、ビジネスそれ自身を取り上げた作品はほとんどなく、多くの作品は、会社を舞台にした人間模様であることが多いです。

 もちろん例外はいくつかあって、この「一騎当千」もその一つと申し上げてよいと思います。

 当時の岸政権の政策で対中貿易が不振になったため、北浜交易株式会社の東京支店は閉鎖されることになります。三十人ほどいた社員はちりじりになり、残った支店次長の宮口浩太郎以下七人は、退職金を元手に起業を試み、銀座のバー「紫」のマダムのパトロンである、猿山金五郎の紹介で、プラスチック加工会社を買収し、「七洋プラスチック株式会社」を設立します。前途洋々たる船出であったはずですが、サラリーマン時代には予想しなかった出来事が生じます。まず資金繰り、組合対策とストライキ。こういった諸問題を宮口を中心とする七人の侍は一つずつ解決していきます。

 こういう内容の作品で、おそらく源氏は取材をして、それを完全に自分の中で消化しながらこの作品を書いたものと思われます。しかし、それでも会社買収や組合対応は、本来の源氏のテーストではなかったようで、作品はこれからというところで、何となく終ってしまいます。中途半端な失敗作というのが本当のところでしょう。


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