不惑にして惑う

さわりの紹介

 「小父さん、今夜、あたしを買って」
 南氏は、自分の耳を疑った。思わず、真ともから娘の顔を睨みつけた。
 「君は、パンパンだったのか」
 低いけれども、叱りつけるような声になっていた。
 南氏も、近頃のパンパンは、街頭だけでなしに、こういうパチンコ屋の中へまで進出して来ていようとは、知らなかったのである。パンパンとは見抜けずに、清純な娘と感じていた自分の迂闊さに対しても、腹が立ってならなかった。
 いったん、うなだれた娘は、ふたたび、顔を上げた。そして、三度、頭を横に振ってから、悲しげに、
 「違うわ」
 「違う?」
 「だって、今夜がはじめてなんですもの」
 娘は、抗議するようにいった。
 「はじめて?」
 「そうよ、だから、買って頂戴」
 南氏は、もしかしたら、この娘のいうことは本当かも知れない、と思ってしまった。
 「いくらだ」
 娘は、しばらく黙っていた。それから、憤ったように、
 「・・・・・一万円」
 「高い」
 「だって、どうしても、一万円がいるんですもの」

作品の話

本篇「不惑にして惑う」は、文庫化に際して改名された。原題は「南氏多いに惑う」である。初出は昭和32年の講談倶楽部。1月号から12月号まで連載された。

 主人公は40歳の中年男性南礼三氏である。資本金500万円、従業員50人の鉄工会社を経営している。この南氏、もう、あまりに当たり前の中年男性である。小心で、助平で、恐妻家で、時代背景が違うので、一寸古典的ではあるが、まあ、典型的なおじさんと言ってよい。この南氏の助平さと真面目さのとのバランスは、大阪では浮気をしたことがあるが、東京ではない。でも東京でも彼に好意を持ってくれていると思われる銀座のバー「風車」のマダム、渋谷の飲み屋「景子の店」のお景ちゃん、向島の芸者とん吉とは、出来れば愛人関係になりたいと思っていた。
 そんな南氏、パチンコをしているところに自分を買ってくださいという娘、関沢はるみが現れる。南氏は、名前が自分の娘と同じ事を知ると、結局何もせずにお金を渡す。そして、2週間後に再会する約束をしてわかれる。
 南氏、多忙である。家に帰れば、自分の妹、広子が夫の浮気に怒って家出をして来るし、会社は資金繰りが苦しく、銀行の支店長に頭を下げにいかなければならない。妹の夫の浮気の相手は、深井昇子19歳。昇子は南氏の会社を買い取ろうとしている業界の大物深井産業の社長の娘である。どういうわけか、昇子も南氏を気に入り、後を追いまわす。
 色々な紆余曲折はあるものの、玄人系の女性は浮気の相手にはなってもらえず、深い関係にはなっていけないと思うはるみと昇子に慕われる。結局、小心な常識人・南氏は最後は家庭に帰っていく。

 40年以上前の小説です。主人公の南氏を取り巻く女性として、何人もの男の人と関係のあったと思われる昇子と、一途なはるみが対照的に出てきます。この作品の時代は女性の純潔の重要性が、まだ普通の常識であったことがわかりますし、だからこそ、南氏の感性ははるみに共感を覚えるのです。

 南氏の感性、40代になったTにはよくわかります。そして、女性がこの40年間大きく変わったのに対し、中年男性の感性があまり変わらないのは、社会における40歳の意味合いが変わらないことの反映なのかもしれません。ひょっとすると、単にTの感性のみが古いだけなのかもしれませんが。

映画化

映画は、1958年5月19日に封切られています。大映(東京撮影所)の作品。白黒。枝川弘監督。船越英二、川上康子、市川和子、角梨枝子、鶴見丈二、他の出演でした。

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