火の誘惑

さわりの紹介

 香椎にとっては、眠られぬ一夜であった。
 奈々江と伊豆子の顔が現れては消える。伊豆子の顔には北村が重なり、それが妄想を呼び、ベッドの上で転々としていた。奈々江の面影を思いうかべることで、やっとその苦しみから解放された。電車の中で奈々江と会うことができたのは、幸運であったといえる。いたわるように自分を見つめていた奈々江のまなざしが、いまも暗やみから、同じ光りを注いでくれるような気持ちがしていた。奈々江の心が、近々と寄り添うてくる・・・・。
 朝−。頭が重かった。窓をいっぱいに開いて、さわやかな外の空気を思いきって吸った。すこし気分が楽になったが、きょうは会社へゆくのは、ゆうつである。いやでも、伊豆子と顔を合わせなければなるまい。どんな態度に出てくるか。しかし、伊豆子のことには、いっさい心を使うのをやめよう。もう、ただ奈々江のことのみを思って暮らそう、と思った。
 その日、伊豆子は無断欠勤をしてしまった。香椎はその空席を、ちらちらと見ながら、やっぱりあれから北村と、どっかへいったのに違いないと思った。それもよかろう、伊豆子には伊豆子の道がある。自分は自分の道をまっしぐらに進むだけだと、その日は、いつもより仕事の能率をあげた。
 夜は、月が明るかった。窓から見える屋根屋根は、ぬれた光りを放っている。香椎は、机に向って、久しぶりに奈良のいなかにいる母にあてた手紙を書いていた。奈々江に会ったことを、なにげない調子で書き加えた。

 そのとき、コツコツとあたりをはばかるように、とびらをたたく音が聞こえた。七時を過ぎたばかりである。香椎は立っていって、扉を開いた。
 廊下の薄暗い電灯の光りを左斜めに浴びて奈々江が立っていた。
 香椎の心を、何かが突きぬけるように走り、とっさには声が出なかった。きのうのきょう、こんなに早く奈々江が来ようとは思いがけなかった。しかし、しいて静かにいった。
「ありがとう」
 奈々江は、ここまで来て、まだためらっていた。香椎は腕をのばして、奈々江の肩を弾き寄せた。奈々江のからだが、なよなよとよろめいてくる。香椎は夢中になってしまった。奈々江は、香椎の胸の中で弓なりにもがいていたが、やがて、ひとみを閉じてしまった。
 しばらくたって、
「御主人には、なんといって来たの?」
「そんなことをお尋ねにならないで・・・・・」
「これからも、時々、出てこられる?」
「あたし、すぐ、帰らなければなりませんの」
「帰したくない」
「いけませんわ。きょうのあなたが、あんまりお元気がなかったんで、心配になりましたから、ちょっと見に来ただけですの」
 香椎はそんな奈々江を、じいっと見つめていたが、思いきっていった。
「御主人は、ほんとうに愛してくれている?」
「どうして、そんなことをおっしゃるの」
 香椎はいいたかった。奈っちゃんは、接吻のしかたさえ、ほんとうに知っていなかったじゃないかと。さすがに、そうはいいかねたが、人妻でありながら、このひとのからだは、女の深いよろこびをほとんど知っていないに違いない、と思われてくるのであった。

Tの感想・紹介

 「火の誘惑」は、1948年大阪新聞に連載された長編小説。源氏鶏太の最初の長編小説です。原題は「女炎すべなし」で、最初の単行本もこのタイトルで出版されました。「火の誘惑」に改名された時期は、よく分りませんが、昭和30年代にはこの名称に変更されていたようです。

 「火の誘惑」は、源氏鶏太の処女長編であると同時に最大の異色作と言ってよいと思います。源氏鶏太の作品は大きく4つの系統に分けられます。第一の系統がいわゆる『痛快サラリーマン小説』、第二の系統が彼の一番得意とした『サラリーマン哀愁小説』、第三の系統が、OLを主人公とした現代風俗小説、それに晩年の『オカルト恐怖小説』です。しかし、「火の誘惑」はそのどの分類にも属さない。無理やり押し込めれば、第三の系統だと思いますが、明朗な主人公が結果として幸福になるという予定調和的作品とは異なり、解決はするものの、非常に苦い解決です。一種の心理小説と言ってもよいかも知れません。

 主人公は、大阪のサラリーマン・香椎。彼には会社の同僚で肉体関係のある恋人・伊豆子がいます。伊豆子の父親は海軍中佐であったが戦死し、彼女が一家の家計を支えています。彼女はすんでいる家の家主から、退去するか二十万円で家を引き取ることを要求され、困っています。香椎には、かつて幼馴染で結婚の相手とも考えた奈々江がいました。しかし、奈々江は自分より30も年上の東宮泰蔵のところに嫁いでいます。東宮は追放中のもと実業家で、今は売り食い生活中です。伊豆子の住む借家も東宮の持ち物です。奈々江は、ほとんど隠遁生活を送っている東宮の元で、退屈に暮らしています。

 そんな香椎と奈々江とが、喫茶店で出会います。そこでお互いの恋の炎が燃え上がり、不倫の関係に入ります。そして、何とか工面した2万円を伊豆子に渡して別れようとします。伊豆子は、この仕打ちに怒りますが、20万円を工面するために、彼女は実業家・北村の世話を受けることになり、会社を止めて喫茶店を開きます。北村には伊豆子の他にも、喫茶店をやらせている洋子がいます。洋子は面白くありません。自分の喫茶店の客を使って、伊豆子の店に嫌がらせをさせに行きます。偶然居合せた香椎が、彼らを止めようとしますが、ナイフで刺されて入院します。

 一方、不倫がばれた奈々江は、東宮に連れられて白浜に来ています。東宮は、これまでのことは不問にするから自分の所に戻って欲しいといいます。しかし、奈々江は、東宮とやりなおす気がありません。そこへ、香椎が刺されたことを伝えに伊豆子がやってきます。奈々江は、伊豆子に連れられて旅館を脱出し、香椎の看病にあたるのでした。

 香椎、伊豆子、奈々江、東宮の4人の心理の変化がご都合主義ではありますが、それなりに納得いくように描かれているのが特徴です。文体も、後年の流行作家時代のような軽妙なものはなく、ユーモラスでもありません。時代をみれば書かれて当然の内容ではあるのですが、非倫理的ですし、決して向日的でもありません。彼は晩年、オカルト的な内容や、人間の暗い心を描写する作品を幾つも書いた訳ですが、本作は処女長編でありながら、晩年の作風を暗示しているのかも知れません。

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