日々哀歓

さわりの紹介

 入り口の扉が開いた。マダムは、そっちを見て、季子が入って来たのを見た。が、思いがけなかったのは、相沢公平と、もう一人、初めて見る美しい女がいっしょであったことであった。まさか、季子が連れてくるといった恋人は、相沢公平でなかろう。それにしてもマダムには、この三人の関係が見当がつかなかった。
 恐らく田尾にしても季子がこのようにして現れるとは思ってもいなかったに違いない。ちょっとデバナを挫かれたような顔をしていたが、そのうちにその顔は、次第に険悪化していくようであった。
 「今晩わ」
 公平がいって、ちらっと田尾の方を見たが、すぐ笑顔をマダムに戻した。
 「いらっしゃい」
 マダムも笑顔でいって、
 「竜野さん、しばらくでしたわね」
 「はい」
 「こちら、どなたですの」
 「竜野さんのクラスメートの大崎麻子さんです」
 「よろしく」
 「こちらこそ」
 「僕はね、ママさん、竜野さんとここへくるつもりで歩いていて、偶然に大崎さんとごいっしょになったんです」
 三人は、椅子に腰をおろした。田尾の隣に公平、季子、麻子の順になった。季子は、終始、田尾を見ないようにしていた。そのことが田尾の機嫌をいっそう悪くしたようであった。
 「ビールを下さい」
 そのビールがくると麻子は、
 「ねえ、季子さんと相沢さんのためにカンパイしましょうよ」
 「嬉しいわ、あたし」
 「いいですな」
 三人がグラスを上げかけると、
 「そのカンパイ待った」
 と、田尾がいった。
 しかし、三人は、かまわずにカンパイをしてビールを飲んだ。
 「おい、待てといったろうが」
 「あなた、どなた」
 麻子がいった。
 「僕のことならそっちの女に聞くといい」
 「季子さん、ご存じ」
 「そうね、以前にちょっと」
 「ちょっとどころではなかった筈だろう」
 「でも、今は、何んの関係もありませんからね」
 「そうはいわさぬ」
 マダムは、見かねたように、
 「田尾さん、今晩は、それぐらいになさったら」
 と、なだめるようにいって、
 「それにしても相沢さんと竜野さんが恋仲であったなんて、あたし、ちっとも知りませんでしたよ」
 と、嬉しそうにいった。
 「おかしいですか」
 公平は、いささかてれたようにいって、それとなくマダムに眼くばせをした。マダムは、おや、と思ったらしいのだが、すぐに何かを感じたらしく、
 「おかしいもんですか。あたしね、今夜、竜野さんが恋人を連れていらっしゃると聞いていたんで、どんな人かと愉しみにしていたんですのよ。相沢さんなら上等よ。竜野さん、よかったわね。おめでとう」
 「はい」
 季子は、わざとはにかんでみせた。麻子は、ニコニコしていた。
 「何がおめでとうなもんか」
 田尾は、吐き出すようにいって、
 「僕は、S機械工業の田尾積夫だが、君の名を聞いておこうじゃアないか」
 と公平にいった。
 公平は、さっきから見ていて、こんな男はダメだ、と思っていた。季子ほどの女が、たといしばらくでも、どうしてこんな男に魅かれていたのであろうか、と思ったぐらいであった。それにしても田尾は、相当に酔っぱらっているようだ。さからっては、面倒なことになりかねない。名だけいって、早々に退散したほうが無難なようである。
 「K機械工業の相沢公平だ」
 「何、K機械工業だって」
 「そうだ。僕たちは、そろそろ失礼しよう」
 「待て」
 「これ以上、何んにも用はなかろう」
 「いってやりたいことがある。K機械工業には僕の親戚の者がいる」
 「いったい、誰なんだ」
 「総務部長の田尾英一さんだ」

Tの感想・紹介

 「日々哀歓」は、昭和55年6月より昭和56年2月に渡って、「週刊小説」に連載された長編小説です。源氏鶏太は昭和60年に亡くなっていますので、晩年期の作品と申し上げて良いでしょう。

 源氏鶏太は、1950年代から1960年代前半にかけて、日本の高度成長と共に、数多くのサラリーマン小説を発表してきました。その中身は数々ありますが、ほとんどの作品がハッピーエンドで終っています。勧善懲悪の作品群といってもよいかも知れません。しかし、彼は、そのような類型的な作品群を作り出すのに飽き足らなくなり、いわゆる妖怪ものに自分の作風を変化させていきます。それは、大衆文学のベストセラー作家の興味深い変化な訳ですが、彼は、一方で、職人としての矜持も維持していたようです。本篇「日々哀歓」は、かつてのサラリーマン作家の名手が職人芸で作った作品といえると思います。

 作品の内容は、簡単に言えば、社内派閥の争いとそれに巻き込まれた、爽やかな青年社員の恋愛、というもので、源氏の伝統的な勧善懲悪もののパターンを踏襲しています。

 すなわち、主人公の相沢公平が勤めるK機械工業は、次期社長の椅子をめぐって二つの派閥が対立している。一つは中尾副社長-引田経理部長のライン、対するは渋谷副社長-田尾総務部長のライン。入社3年目の経理課員・公平は、引田部長を尊敬している。ある日、公平は、引田部長より、盛岡の大株主の娘・大崎麻子が上京するので、接待役をする様にと命じられる。夜の東京を案内していると、麻子は、学生時代のクラスメート、竜野季子とばったり出会う。季子は、それまで付き合っていた田尾積夫と別れるためにバーに行こうとしていたが、その時、公平に恋人役としてついてきてくれるように頼む。公平は、田尾にお酒をかけられながらも、季子の窮地を救い、男を上げる。

 公平は、麻子に「自分の尊敬する上役がどっちかの派閥に属していると分った場合、将来の損得を離れて、その上役に殉ずるのが男の道でしょう」と言われて、引田のために働く決心をする。公平、総務部員ながら引田の思いやりに魅力を感じる片岡、片岡を通じて、停年後の再就職先を引田に世話してもらった牛山、営業のベテラン女子社員実子らが協力し合って、渋谷、田尾らが取引先から多額の不正なリベートをとり、それを株主工作や自分の愛人につぎ込んでいることを調べ、彼らを失脚させる。

 ヒーローと悪役とが明確で、パターン化された内容です。こういった話なら、いつでも書けると言わんばかりです。でも、同じ会社内の派閥争いを書いた作品でも、昭和30年代に書かれた作品にある熱気が、本篇では消えていると思います。また、源氏の作品は、会話のディーテイルの面白さで作品の膨らみをつけている部分があるのですが、全体的にうす味です。ページ数も少なく、若い頃であれば、この素材をもっと膨らませたのではないかという気がします。

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