ボタンとハンカチ

さわりの紹介

 涼子は、思わず口の中で、あっといってしまった。克子がまさか自分からそのようなことまでいおうとは予想していなかったからである。しかし、克子の言い方は、悪びれていないばかりか、堂々としていた。すこしも卑下していなかった。たださえ恐れを感じていた相手なのである。涼子は、それだけで圧倒されそうな気がしていた。年齢の差を痛感させられた。だけでなしに、人間としてのできの差も。さらにいえば、理以子自身、克子を憎みつつ、絶えず圧迫されるものを感じているのではなかろうか。それで、いっそう、なのである。
(ひょっとしたら・・・・)
 涼子は、ふっと妙なことを頭の中にひらめかせた。克子のような女こそ、男に生まれてくればよかったのだ。そして、克子が男に生まれていたら、やがては今の雷社長のような人物になる。そう考えてくると、克子には、男としての雷社長の裏も表も、まるで見えているにちがいないような気がする。このことは、あるいは、逆にいえば、雷社長にとって克子という女の裏も表も、ということにもなりそうだ。もっとも、これはあくまでそのときの涼子のとっさの思いつきにすぎなかったのだが。
「だけど、あたし、社長さんを愛しているわ」
 克子は、ブランディグラスの中をのぞき込むようにしていって、さらに、
「世界中のだれよりも」
 と、つけ加えた。
 こうなっては、涼子は、ただおとなしくうなずいてみせるよりしかたがなかった。
「社長さんのためなら、あたし、どんなことをしてもいいと思っているわ」
 涼子は、それを愛情の問題、と聞いたのである。しかし、克子は、
「社長さんのために不利とわかったら、あたし、副社長さんをやめさせる運動をしてもいいと思っているわ」
 と、涼子のどぎもを抜くようなことを、それもなんでもないことのようにいった。
 涼子は、さっき、理以子が、雷社長と淀君さまのことが大株主たちの間で問題になっているのだ、といったことを思い出さずにはいられなかった。克子は、それを知っているのだろうか。知っていて、なおかつこのようなことをいっているのであろうか。涼子は、もし理以子からそのことを堅く口止めされているのでなかったら、いってみたいくらいであった。
「社長さんには、あたしって女、必要なんだわ」
「・・・・・・・・」
「そして、あたしにとっては社長さんが」
「・・・・・・・・」
「ここまでくれば、社長さんのハンカチであることは当然でしょう?」
「・・・・・・・・」
「それについて、とやかくいう人のいることだって、あたし、知っているわ」
「・・・・・・・・」
「平気よ、気にしないわ。するだけ、バカげているもの」
 そういうと、克子は、なめるようにブランディを飲んだ。涼子は、圧倒されたまま、あきれたように克子の横顔をながめていた。しかし、そのとき、克子の横顔に妙に憂いのかげのようなものが感じられたのは、涼子の気のせいだったろうか。
 たしかに、涼子は、圧倒される思いでいた。ここまで言いきる克子を、ある意味でりっぱだ、といいたかった。そこらの男のさかだちしても及ばぬところかもわからない。しかし、涼子は、
(りっぱだけど、この人、どこかまちがっているんだわ)
 と、いいたいのであった。
 今は、まだ、どこがまちがっているか、具体的にいうことはできない。しいていえば、
(社長さんのハンカチであることが)
 となるだろう。

作品の話

 「ボタンとハンカチ」は「婦人公論」(中央公論社)1965年5月号から翌66年4月号まで連載された長編小説です。

 源氏鶏太は、サラリーマン小説で有名ですが、坊ちゃん型の快男児が、会社乗っ取りであるとか、社長派と専務派との対立のであるとかを解決するというのが主たるパターンです。それに対して、この「ボタンとハンカチ」は、社長と副社長との対立を女性秘書の対立の形で描いたところが珍しいと思います。ヒロインの正井克子の描き方が特徴的で、それゆえに、本篇が佳作にしあがっていると思います。

 舞台は大手商社・大東物産の秘書課です。大東物産には、ワンマンでやり手の雷社長・塚本恭介と福沢英三副社長がおり、それぞれ専属秘書がいます。この秘書課に女子新入社員である神泉涼子が配属されてきました。涼子は、上村秘書課長より「ボタンとハンカチ」という言葉の説明があります。

 課長はこういいます。『重役から洋服のボタンをつけてくれといわれたら、それはつけてあげるべきだ。だから、平常からそれくらいの用意をしておくこと。しかし、ハンカチを洗ってくれといわれたら断るべきだろうな。(中略)重役の身辺の世話をするのが秘書の仕事の一つである。が、ハンカチまで洗ってあげるのは行きすぎだ、ということ。ボタンをつけるのも、ハンカチを洗うのも、そこにたいした違いがないようだが、しかし、ハンカチというと、それは奥さんの領分になる。いくら秘書でも、そこまではいっていくとまちがいが起こりやすい。』

 課長がこういう話をするのは、社長秘書の正井克子が、社長の『ハンカチ』であり、女王のように振る舞っているからです。彼女は陰で淀君といわれています。この淀君に対して、社内の反発は強いのですが、社長の権勢が強くて、彼女に対して正面から対抗する人はいません。こんな克子を一番ライバル視しているのが、副社長秘書の戸倉理以子です。 理以子は、副社長と『ハンカチ』の関係にはありませんが、社長を引退させて、副社長を社長にし、自分が社長秘書になることを夢見ています。その為に、克子の振るまいを大株主達に伝えています。

 社長が大阪の大株主、手塚を訪問したとき、手塚は、克子を止めさせるように強く勧めます。社長はこれに従うと言いますが、その晩、脳出血で倒れ、死亡します。社長秘書だった克子は、社長の遺品整理をしながら、煙たがられながらも秘書課に居残ります。次期社長は、なかなか決まりません。それは克子と理以子との確執が背景にあるためです。結局副社長が社長に昇進しますが、そのとき、専任秘書は置かないこととなり、克子は営業に出、理以子は退職します。

 この作品の面白さは、周囲から「ハンカチ」だの、「淀君」だのと陰口を言われるのを知りながら、自分が社長の一番の忠臣だと信じて、社長の為に自分が防波堤となって尽くさなければならないと考える克子のキャラクターを上手く造形できたことです。克子の実像は社長の支えがなければ生きて行けない、孤独な女性ですが、その寂寥感が、キャラクターに深みを与えていると思います。

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