青い果実
さわりの紹介
そこへ、柳井博士と菊子が、入ってきた。
「やア、僕が、柳井ですよ」
柳井博士は、きさくな口調で云った。美也子も、立って挨拶をした。
菊子は、困ったような顔をしていた。それを見ると、美也子は、それでは、採用の話は、うまくいかなかったのか、とせっかく張り切っていただけに、よけいにガッカリしてしまった。
「このひとから、話をききましたがね」
「はい」
「どうも、病院では、いま、新しくひとを採用するわけにはいかないんですよ」
「どうしても、でしょうか」
「ええ、お気の毒ですが」
それから、博士は、口調を変えるようにして、
「まア、働かざる者は、喰うべからず、も結構ですよ。しかし、僕は、お嬢さんなんか、早く、結婚なさった方が、いちばんいい、と思いますよ。ねえ、そうなさい」
「あたし、当分、結婚をしません」
「ほう、どうしてですか。この町には、お嬢さんと結婚したがっている青年が、ウヨウヨしている、と云う噂じゃァありませんか」
「ところがね」
と、横から、菊子が、口を出した。
「そんな、結婚をしたがっている青年は、お嬢さんのお気に召さないんですよ」
「そんなことを云ったら、この町の青年たちが、泣きますよ」
と、柳井博士は、気楽に云った。
先日来、病院に勤めたら、ああもしよう、こうもしよう、とせっかく夢に描いていたことが、美也子の胸の中で、地ひびきをたてるように崩れていった。
「あら、次郎さんが、いなさるわ」
と、菊子が、びっくりしたように云って、美也子を見た。
「次郎?」
「ええ、田村次郎さん」
「ああ、次郎とお嬢さんは、東京時代からのお知り合いだったんでしたな。ちょっと、ここへ、呼んでやりましょう。おい、田村君」
その声に、次郎は、立って来た。
「まア、そこへ、腰かけたまえ」
美也子は、次郎を見上げた。しかし、次郎は、無表情に、会釈をしただけだった。
「実はね、今日、宝井のお嬢さんが来られたのは、病院で働きたい、とおっしゃるんだよ」
「え?」
次郎は、おどろいたように、美也子の方を見た。美也子は、顔を上げて、その次郎の視線に堪えていた。
「それで、きまったんですか」
「いや。だって、考えてみたまえ。まさか、この病院で、町一番の金満家の令嬢を使うわけにいかんじゃないか。そんなことをしたら、第一、周囲の連中が困る」
「いいえ、あたしは、金満家とか、そう云うことでなしに、ただの女として、働いてみたかったんですわ」
「そうなんですよ、次郎さん」
と、菊子も、云った。
次郎はしばらく、黙っていた。
それから、やや、皮肉な口調で、
「そんなに働きたいんですか」
「ええ」
「そんなら、別に、この病院でなくてもいいんでしょう?」
「でも、なるべく、この病院の方が-」
と、菊子が、云った。
「しかし、ただの女として働くなら、病院で無くてもいい筈じゃアありませんか」
「そりゃアまア、そうですが、お嬢さんは、病院の方がいい、とおっしゃるんですよ」
「僕はね、ただの女として、だけで無しに、金満家のお嬢さんとしても、理想的な就職口を知っているんですよ」
「まア」
「え、本当かね」
「でも、そこだと、お嬢さんの遊び仕事としては、無理でしょうな」
美也子は、自分の働きたい、という気持を、次郎から、そんな風にとられているのか、と心外になった。
いや、元々、病院を希望したのは、そんな気分が無かった、とは云えないのである。しかし、次郎の皮肉な口の利き方を聞いているうちに、どんなところにでも、勤めてみよう、と云う気分になって来た。こうなったら、意地でもある。
「そこは、いったい、何処なんだね」
と柳井博士が云った。
次郎は、真ともから、美也子の顔を見つめて、ズバリと云った。
「若草保育園です」
Tの感想・紹介
「青い果実」は、1954年11月号より翌年10月号にかけて月刊誌「キング」(講談社)に連載された長編小説です。
源氏鶏太は、サラリーマン小説の大家として知られ、従って小説の主な舞台は、東京か大阪、と云うのが普通のパターンです。田舎を舞台にした作品は、ほとんど書いていません。しかし、例外も何作かはあり、その一つが、この「青い果実」です。「青い果実」の舞台は、人口12000の田舎町であり、海岸が近くにあり、冬には雪が沢山降るような街です。地名は具体的には書かれていませんが、源氏鶏太の故郷である、富山県の町をモデルにしたことは間違いないようです。
そういう田舎町での「ボーイミーツガール」の古典的な通俗恋愛小説です。
この田舎町に、「朝粥会」が発足しました。メンバーは26、27といった青年たちで、朝の街中を「わっしょい、わっしょい」と駆け抜けて行きます。彼らの目的は、町一の財産家、宝井家の娘・美也子に手を振ってもらうことです。美也子の父の宝井運平は、美也子の婿をこの町の青年から選ぼうとしている、との噂が流れています。町の雑貨屋の娘・三枝子と、呉服屋の娘・初恵は、朝粥会の青年が、美也子に一人に熱をあげて、自分たち、そのほかの娘たちを放っておくのが不満です。そこで、娘たちを集めて、朝粥会の青年とは絶交もやむを得ず、と宣言します。
そんなころ、東京から、医学部を卒業して、インターンとしてこの町の病院に勤めるために、田村次郎が帰ってきます。次郎は、朝粥会のリーダーである早川慎平の親友ですが、朝粥会には批判的で、また、箱入り娘で、世の中を見ないと、美也子に対しても批判的です。実は次郎と美也子は、同郷のよしみで、東京では知り合いで、美也子は次郎のことを憎からず思っていたのですが、そのような批判を受けたので、自分で働いて、世間を見ようとします。
最初は次郎の働く病院に勤めようとしたのですが、次郎の厳しい言葉もあって、ボランティアで若草保育園で働くことになります。保育園は公立ですが、予算がなく、設備もみすぼらしく、又、入所している子供たちもとても貧しいです。美也子は、そういう子供たちの面倒を見ながら、保育園へ父親に寄付させようと尽力します。
この作品は、ほのぼのとした、田園風ユーモア小説です。源氏鶏太としては異色な作品ではありますが、このような作品も初期のころは書いていたのだ、と云うことですね。作品の時代は、昭和20年代末ですが、この時代は青年団が未だ活動していた、であるとか、当時の保育園は、片親の子供たちが預けられる場所だった、と云う様な事が分かります。こういう様子を見ると、半世紀以上前と現代の違いが良く分かります。
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